資本は、労働を疎外したことを土台にして利潤を得ていることに鑑みれば、生産関係上、一労働が完了する毎に、給与を支給しなければならない。

少なくとも休息が終わり、次の休息までの日払いで払わなければならないところ、月に一度の支給日まで、労働者に給与の支給を待たせているのである。

しかも、労働に付与された価値は疎外され、労働力商品として購入された取得価額が毎月支払われているにすぎない。

納期の短縮による労働の強化、残業により取得価額の全額を労働者は手にしているわけではない。

労働者が支給を待たされている紙切れは、オンライン上で他の経済実体に投融資され、労働をしない国際金融資本は疎外労働を土台とした利潤を得て利息という方便を付与している。労働者は現実に労働を提供した。

その間、労働者は、生活上余儀なくされる支払いが滞る。

国際金融資本は、国際金融資本から投融資を受けてそのおこぼれを得ている資本を通して、給与に利息を付けて、資本に給与を支払わせなければならない。

資本は、国際金融資本が金を貸してくれたから利潤が得られたのではない。

労働者に疎外労働をさせたから利潤を得て生活できているのである。生活を土台にした疎外労働による利益の交換から、労働をしない経済実体が、労働者の労働に付与される価値をないものとして、何の価値もない架空の紙切れに価値を付与して引換えられたのが、すなわち、労働者が生活過程を買い取られ、労働力商品として買われたのが、金融資本経済の生成過程のスタートであるから、労働者は国際金融資本から金を借りていない。

資本は、国際金融資本から投融資を受けて、それを労働者に貸付け、需要をフィクションしー国際金融資本は、生産手段の購入の段階でも労働を疎外していることになるー、疎外労働を土台とした利潤のおこぼれを得ているのであるから、国際金融資本がフィクションした国債の負担をしなければならないのである。

国債を購入しているのも国際金融資本であるから、リスクは実体のない観念である。国際金融資本が借入の担保を採るのは、取り上げた資産を引き渡して配当を得て、別の経済実体に投融資できるからである。

労働者は自由意思で資本、生産手段の貸付を受けているのではない。実体のない国際金融資本と金融機関の資本関係、国際金融資本とプチブルとの資本関係から労働力商品として購入されたのだ。資本関係、生産関係を捏造された段階で労働者の権利は存在しない。

奴隷として購入しておいて恰も労働者に権利がある、俺達(資本のこと)は、労働者の権利を守ってやってるんだと上から目線で語っていながら、労働力商品に付された価格すら支払わず、それでいて労働力を再生産しろと言う。

労働者は、働いたのだから当然と思わずに、会社の負っている負担の重さや給与の遅配がないことに感謝しなければならないとすることは、労働者にとっては、ふざけるな、お前は何様じゃ!と言いたいところであろう。労働者の権利を守ってやってるんだという、実体のない上から目線の発言、労働者に感謝の気持ちを持たせるということで労働関係が改善されるというのは花畑でしかない。感謝の言葉など要らない。

愛ー愛は実体がないーなど要らない。プレゼントも要らない。女や酒も要らない。働かせたのだから、成果に関係なくー損失は労働していない資本が負担する義務があるー、その分、きちんと給与払えや!ということである。