現行所得税法12条は、「資産又は事業から生ずる収益の法律上帰属するとみられる者が単なる名義人であって、その収益を享受せず、その者以外の者が享受をする場合には、その収益は、これを享受する者に帰属するものとして、この規定を適用する」と規定している。かつては、実質課税の原則、実質所得者課税の原則と呼ばれているもので、租税法の解釈に当たってはその経済的意義をも考慮しなければならないとする旧ドイツ租税調整法における経済的観察法の影響を受けている。また、アメリカにおいては、実体を伴わない見せかけの法形式を選択した場合のsham理論による課税が行なわれている。

しかし、取引当事者が契約等を締結し、自らの所有権を登記するのは、口頭の契約等に基づく契約や、事実上の所有や事実上の所得の帰属は私法上一応有効なものとなりえなくもないが、相手方に対する拘束力や第三者に対する対抗力という点では弱いという相手方及び第三者との「関係」に基づくものであるからである。人は目的によって行動するわけではない。目的はあくまで手段「によって」正当化「される」のであって、方便にすぎない。

現代において、ブルジョアジーは、益々、神秘と不可思議なものを好んで、精神論を強化しようとする。法律のプロは、事実認定や法の解釈;適用を感性で行なったり、勧善懲悪を持ち出したり、法に魂をこめるなどは決して行なってはならない。唯心論やブルジョアの拠り所となる、人が物に対し特別に組織した精神論などは、構造主義的且つ弁証法的に焼却されなければならない。このことは、租税回避など企図する者は、この世にいないという性善説に立っているのではない。仮に租税回避の意図を有する者がいたとしても、こうした意図は決して外形上現れないのであるが、解釈に当たっては、租税回避の意図は、考慮に容れる必要性はない。契約や登記といったものの法形式は、当事者及び第三者に対する拘束力は相応の強さを持っているからである。

法形式による所得の帰属者と実際の所得の帰属者が一致しないということは通常ありえないし、仮に法律上の所得の帰属者から、別の者に対して、利益が移転した場合には、個別法に基づく課税がなされているし、大企業の場合、租税回避目的のための法形式を選択又は創造しなくとも、税法は大企業有利に立法がなされているから、敢えて節税を考慮する「必要」はあまりない。よって、実質課税の原則を持ち出す意味はほとんどないと言える。実質所得者課税の原則とは、租税行政側が、法律の抜け穴に対する、いわゆる「ふさぎ立法」(確認規定)として、機能させたいだけの、便法にすぎないのである。確認規定と考えているから、納税者が個人法人に関係なく、当該原則を持ち出してくるのである。