以前、本能という言葉、支配者にとって、都合の悪い価値観を持つ者を攻撃するのを容易にすると書いた。それだけではない。人は皆、生まれながらに、備え持った性質がある、という前提に立って、価値観の一本化、すなわち、人々を同じ方向を向かせる、集団化させる役割が与えられている。
前回も書いたが、自分の考えを、理屈では説得できない事態に陥ったとき、それを正当化する役割も与えられている。「運命」もそうだ。人にはもって生まれた運命があるといってしまえば、支配者は、自己の見解を正当化し、相手を従わせることができる。支配者ばかりでなく、被支配者も思考を放棄してしまうのである。
他人のものを欲しがり、略奪するのも獲物を捕獲するのも本能ではない。闘争本能もない。防衛本能もない。自己を正当化するための推論を製作するのだ。代々遺伝するものでもない。好きな人の子供を産みたいというのも、洗脳により好きと錯覚させ、好きな相手と出会ったからであり、もともと備わっている性質ではない。
容姿は遺伝することはあると言われるが、性格は遺伝しない。社会に、人間によって作られるのだ。にもかかわらず、知識人と呼ばれる人も運命や本能という言葉に丸めこまれる。出会ったのも、運命や偶然ではない、必然である(「共通の目的を持っていたから」、第三者によって、仕組まれて好きでもないのに好きだといっているだけなのかもしれない、等)。セックスしたいというのは、本能ではないか。いや違う。「男は寝てみないとわからない」の言葉どおり、最初はそのような感情は備わっていない。いや、幼児期かろの刷り込みでわかっているのにわからないとされているのかもかもしれない。
同性も異性も一人の人間にしか見えない。性の対象としては見ていない。初めて見た、全く知らない人を襲うこと、襲われることなど考えない。襲ってきたらキモイし、恐怖である。その人のことを知っていく過程で、興味を持つ、キモいと確信する。いや、一瞬でわかるのかもしれない。一瞬で判断していても瞬時に経験や歴史だけでなく多くの点から分析し好き嫌いを判断している。様々な媒体を通し、外部からの情報によりセックスそのものに興味がある、いや嫌いだなど、したい、したくないという理由は、様々である。勝ち組利益集団である国家は、利益を守ってくれる兵隊が欲しいから、生殖して欲しい。だから、セックスに興味を持たす。人口変動は偶然ではないのだ。
性としての対象としていない生物に対し、性の対象としての性格を与えるから、与えられた当事者にとっては互いに気持ち悪く感じるのである。そして、セックスに関していやな思い出が多いから、セックスは嫌いだ、オナニーの方が好きだという人もいる。要するに本能などというものは、存在せず、人格は自身の経験や歴史、社会、外部の環境等人間に賛成したり、反対したりすることによって形成されるのである。本能という言葉を好む人は、政治的・経済的目的を持っていて、セックスが嫌いだ、結婚しないと言おうものなら、子供を作りたくないと言おうものなら、子供が嫌いだと言おうものなら、あいつは、異常だ、人でなしだ、非国民だというのである。
職業政治家だけでなく、身近なところにも「政治家」は存在するのである。ビジネスでも政治でも「本能」とか「運命」とか、そういった言葉を連発する人には、必ず発言の意図がある。自己が成し遂げたいと思っていることは、相手も本能として備えているとしたがる。「俺もそうだから、あいつらもそうだ」。
財界の要請に同意しないと儲からないから、労働力を再生産できないから、労働を疎外され、おこぼれをくれる財界の思想、自民や民主が好きだから、一人たりとも財界が作った秩序からはみ出すことを許さないのだ。産業報国会、隣組、大日本婦人会、青年会議所のような人たちと同じである。そして、いったん、相手に選択の余地を与え、自分の仲間にする。自分は決して手をそめない。
具体的には、相手が気分よくなっていいるとき、相手が弱っているとき、疲れて休んでいるとき、油断したとき、ふとした隙にそういう言葉を発してくる。こちらが最後の力を振り絞って反論しようものなら、味方を連れ、十倍にして返してくる。常に自分がどうしたいのかを持って、疲れたときは休むことに専念して、そんな奴のことは相手にしないことである。回復したら、反論しよう。