時間は実体のない観念である。

労働力がした労働と

労働力が労働をして

製作した機械の

スイッチを

労働力が押して

オンラインで稼働させ、

時間という価値を付与して

時計という属性、方便を与える。

時計と呼ばれている機器には

価値属性は備わっていない。

時計は物差しではない。

時計は商品である。

時間をコントロールするとの錯覚は

労働の強度(労働の速度×労働の反復回数=労働量)を

コントロールさせられているということである。

時間というユダヤ金融資本の妄想の中に登場する

番犬に追い立てられているのである。

時間による制限を予め決めて労働をするということは

労働を強化し

それに短縮化された

労働時間という価値属性を付与する。

労働の評価が疎外され

国際金融資本に前貸しさせられる。

貸付の返済を

生存すなわち労働力を再生産して

待つという労働をすることを余儀なくされる。

国際金融資本に前貸しした労働の評価という

実体化が捻じ曲げられ、

債券のフィクションを通じて

労働力への貸付がフィクションされる

国際金融資本がした債務の返済に

労働力商品への貸付をいう属性が付与されるのである。

国際金融資本は、フィクションされた資本関係を方便にして

国債の返済を負担させる。

紙切れが価値を産んだとの方便を使用して

労働の評価を疎外して

国際金融資本からの

利潤の評価のコントロールを受け

国際金融資本に処分権を付与させる。

労働力商品と引換えに受け取る商品(紙幣)に価値が付与される。

労働力商品の評価は、時間を用いて

評価される。

同じ労働量をゆっくりとした速度でこなしても

フルスピードでこなしても

時間を用いた評価の6割しかもらえない。

始業前に労働を開始し終業までに帰るということは

睡眠休息の量を削り、ギアを入れて

労働をするということであり、

労働を強化し

時間という評価を下げるということ。

アイドルタイムができれば、

新たな仕事を盛られる。

労働に付される単価は更に下がる。

時間を決めるということ

自分の時間を作るということは、

時間に追われることである。

アイドルタイムと労働力商品の評価を自分に投資することは

自分という労働力に貸付をすることである。

疎外労働の反復に応じることである。

実体のない紙切れが御主人様で

紙切れに追い立てられ、コキ使われていることである。

重要なことは

時計には価値属性が備わっていないこと。

時計は物差しではないこと。

時計は、労働力商品や架空資本と交換される商品である。

時間を決めることではない。

時間を作るといことではない。

労働量を決めることである。

受注量を決めることである。

そうすることで、

労働を

時計と交渉させて

時間という価値を付すことを

しないで済む。

労働のペース、

切り上げは一定に

しなくて済む。

現実にスローペースで労働しても

労働の速度をアップして

仕上げたとしても

労働時間をフィクションして

高い価値をフィクションすることができる。

労働力は死に向かって進行している。

時間は実体のない観念である。

時間が有限なのではない。

労働力の稼働が有限なのである。

いかに労働をしないでいられるかである。

その前段階として、その源泉でしなけらばならないことは、

国際金融資本から貸付をフィクションされないことである。

大量消費をできなくすることである。

このことは、労働し又は労働させて

蓄財して

国際金融資本に預金しろということでないことは

賢明な皆さんは、もうお分かりだろう。

貸付を受けないリストを作成することである。

貸付を受けないリストには、

産む機械

労働力

製薬

延命

書籍

テレビ

家族で住める家

保険

金融商品

不動産を取得して貸すことが

入るであろう。

上記のものは全て、労働の強化に貢献する

装置ばかりである。

ネット上にも

確かに工作員は存在するが、

記事を書くという疎外労働に応じることで

工作員以外の者も

参入できる。

メディアのコメンテーターは

国際金融資本から貸付を

フィクションされている。

テレビや書籍には

国際金融資本の工作員しか

登場しない。

選択枠がないのだ。

情報の真贋を見極める実力は

つかない。

贋しかないのだ。

労働を強化することにしかつながらないのだ。

捨てることによって

何に評価を付すかという実力が身につくのではない。

消費する前の貸付を拒むことによって

身につくのである。