忌憚なくクレームをつけること、空気を壊すことを社会は「子供」と評価するが、そうであるとすれば、肉体が大人と評価されても、社会人にも餓鬼はいくらでもいる。

空気は資本関係を土台に形成されるから空気を壊すことが適切でないとは言わない。資本関係を土台にした弊害を崩すことにもなるからクレームを付けるなとは言わない。

経済関係を土台にそれに基づいて実体関係の存否による制約を受けて仕事をせざるを得ないから、実体のない観念たる目的ではなく経済関係に基づいて全体化した上で先を読む、すなわち観念を試行し調整していかざるをを得ない。資本関係を土台にした納期、フィクションされた需要に翻弄される必要はないと思う。実体化されてしまった納期も交渉してリスケジュールすることも考慮に容れなければならないケースもある。

全ての問題を細大漏らさず拾い上げて、練り込んでプロセスを築き上げていく。取捨選択をしたら、人民に利益を与える仕事ができない。

ごまかすということは、理由を説明することをやめるということ、経済上の事実確定をやめるということである。価値を受け取る以上は全体化のプロセスを踏んで現実に即して事実確定をしなければ利益を供与することはできないであろう。

子供を養育することによって、介護のスキルは身につくし、労働力商品を作り上げたのだから、賃労働でなければならないし、履歴書に書くだけの評価は付されてもいいとは思う。

個人的には、ごまかす力や取捨選択する力は仕事に必要だと思わないが、仕事に必要な力も、これらも力も、餓鬼を通じて自然に身につくものではない。経済関係に応じて変えざるを得ないのだ。

変えざるを得ない力は、餓鬼を育てなくても身につく。

子育てをしてるからといって、餓鬼を作らない奴より高い評価は付さないよ。

こいつ、ヤッてるなぐらいしか思わない。

花畑を誘導して労働力の再生産に呼び込むことはいかがなものか。