家庭や戦争を含めた企業について論じるとき、イデオロギーすなわち理念は不要である。専ら経済上の全関係に基づいて経済過程に応じて対応を変え更新することを余儀なくされる。
経済は、イデオロギーによってどうにかできる程甘いものではない。
中小零細企業の場合、出資と労働を兼ねる役員が存在する。
この者は、労働者に出資して、無償労働をさせてー給料は労働力商品の価格ー利潤を得ていることから、出資をしたことをもって、損害賠償義務が産み出されるのではない。代表取締役の労働をしたことをもって損害賠償義務が生み出されるのではない。
経営とは労働を提供せずに、労働力商品を購入し、又はさせて無償労働をさせて、労働に付された価値を奪い取ることである。
経営者なる階級はマルクス経済学には存在しないが、資本経済の仕組みを土台に経営者の属性を付与するのであれば、代表取締役にではなく、資本に付与されるものである。
ユダヤ資本は、無制限に架空の紙切れをオンライン上でフィクションできるのであり、貸した金をなかったことにされてプライベートと肉体を提供するしかない労働者のどちらに先に返済しなければならないかは資本経済の仕組みを踏まえれば答えがでるであろう。
そうしてみると、出資した者が、労働者に損害賠償を負わせる株主代表訴訟なるものが実現すると考える事の方が、資本経済の仕組みを土台にした場合、ありえないことである。
労働者が出資した経済人を訴えることを妨げることはできないという解釈が導き出されなければならないであろう。
労働基準法においては、給与全額支払の規定がありながら、他方では株主代表訴訟が認められるという矛盾を学者先生は指摘しない。
日本の財界人や大学教授や弁護士や会計人は、ロスチャイルドやロックフェラーが出資設立した学術期間から事実に基づいた教育を受けてこなかったのである。
労働者の側としては、ユダヤから金を借りて、それを労働者に貸して、無償労働をさせて、現場労働の報告を待っているだけの、ユダヤから、疎外労働を土台とした利潤の残滓を受け取っているだけの資本が、何故そんなに会社の口座から引き出して、それに給与という価値属性を付与しているのかということを言いたいところを、喧嘩ー有形力を行使した餓鬼の喧嘩ではないー慣れしていないから、語彙が少なく、給与が高すぎるという言い方になったのである。労働者が、資本が受け取る紙切れに付された価値について高いと批判することが妨げられるとなると、労働組合ー一人労働組合も含むーは抹消され、資本の代理人たる御用組合になるであろう。
顧問先の職員が顧問先の社長の給与を取りすぎだと言ったことについてカチンときたと言っている税理士先生は勉強不足というほかない。