トマピケティの21世紀の資本や講演を見聞きした学者や学生、労働者は読んでいて痛快であっただろう。メディアが、待望のニューヒーロー現ると宣伝するから洗脳された方もいらっしゃるかもしれない。

しかし、こういう著作物ほど注意しなければならない。否、容易に入手して読むことができるものは全て問題提起しながら粘り強く読まなければならない。

税法関係の書物を出版している弘文堂もロックフェラーの投融資により成立しているし、桐原書店もロスチャイルドの投融資を受けている。ロックフェラーは、NTTの前身である日本電電公社を出資設立し、人民の通信記録を収集し、その後、テレビ、ネットを出資設立させて、資本増殖過程に後付の方便をさせ、NTTに人民の生活を監視させている。

出生率が高くなると労働力の再生産が増え、資本は増殖する。女の雇用が増えると、労働力の安売り競争も相まって、疎外労働の量の増加と反復が継続されて国際金融資本の資本が増殖する。性労働は無償労働である。

企業での労働は賃労働である。

疎外労働を土台に不労により金融資本は資本に付与される価値を増殖できる。資産バブルにしても出生率が下がった。

労働者と劣後金融資本との格差が大きくなかった頃も出生率が低下していた。日本は格差が小さかった。観念上の国はゼロ成長なのに格差が広がった。

消費を停滞させている層がいることを指摘する。所得のトップが税金を納めていなかったことを指摘する。トマピケティは、人口減で低成長の国は、富裕層に相続により富が集中するから、資産課税を強化して男女平等にして出生率を高めることを主張する。

「トマピケティを共産主義者ではない」ことを指摘する論者は多い。そのような論者は、その上で「ピケティは資本経済の矛盾を訴えている」を指摘する。資本経済の矛盾を述べてはいるが、国際金融資本に後付の方便を与えている。

ピケティを共産主義者でないとする論者は、ピケッティが国際金融資本に後付の方便を与えていることを指摘していないのだ。トマピケティは、ブルジョア経済学者である。安倍晋三はピケティを恐れていない。安倍もピケティも、ロックフェラー、ロスチャイルドの使用人として手を取り合っている。

出生率が停滞しても人口が減少するかしていても、正社員にして労働力の安売り競争をさせれば、国際金融資本は、資本に付される価値を殖やすことができる。女は男に抱かれなければ生活できないから、労働力を再生産せざるを得なくなる。共産主義者も、ロックフェラー、ロスチャイルドから投融資を受けて使用人として手を取り合っている。

中央銀行に投融資をフィクションしているロックフェラー、ロスチャイルドのような国際金融資本と中央銀行に出資できていない、銀行や大企業への投資に付された価値が国際金融資本よりも小さい劣後金融資本が存在する。

ロスチャイルドは、ファイナンスタイムズ、Forbesに、投融資をして、オフショアにある国際金融資本の帳簿上の架空資本を含めずに資産を報道させてきた。

ピケティの言う格差拡大を批判してきた。ピケティは、FTの双方に富裕層という価値属性を付与して論じている。ピケティは、両誌の資産の過少申告を取り上げて反論する。

しかし、ピケティは、国際金融資本の使用人として、FTやForbesとも手を取り合っている。ピケティは、戦争へ投融資して資産税を強化することで経済格差は縮小したと言っているのだ。しかし、現実には、疎外労働の量が大きいから、国際金融資本の資本へ付与される価値は増大するのだ。

トマピケティは、公的資本の純資産の減少よりも、民間資本の純資産の増加が大きいと指摘する。しかし、国庫という口座は存在しない国家は実体のない観念であり偶像である。国債を郵貯を始めとする民間銀行が買うか、日銀という民間銀行が買っても資本の投融資量は増える。

デフレである過程は存在しない、常にインフレである。3.11の原爆投下後、緊縮財政はとられていない。国際金融資本は、資本関係を土台に、郵貯などの民間銀行が国債を買わせて、東電の労働力に2兆円、外資の労働力に100兆円投融資をフィクションした。

メディアは、国際金融資本から投融資を受けている。メディアの言っていることを真に受けてはならない。

労働者は、労働を疎外され、実体のない国債を前払い返済させられている。国債は国際金融資本が民間銀行を使用して発行し、国際金融資本が資本関係のある日銀や民間銀行に買わせている。公的資本と価値属性が付与されているものも、日銀も連銀も民間資本である。国際金融資本は、日銀、連銀、大産業法人に投融資をしている。

よって、国際金融資本は、債券を債務の支払手段として提供しない。納税も負担せず、産業資本や労働者に国債の返済をさせる。

トマピケティは、ユダヤ金融資本を叩かずに、金融機関のエリート労働者やプチブル労働者を叩いている。

ピケティは、投資のリターンは、賃金の上昇率を上回るという。すなわち、投資の促進によって、投資によるリターンだけではなく、賃金が上昇するということを言っているのだ。景気回復と同時に株高になるのは自然なことだと村上尚己は「ピケティでアベノミクスを批判する残念な人々」という論文の中で述べている。しかし、これらの見解は余りに花畑である。国際金融資本の資本増殖過程のプロセスを見誤っているか、見誤らせている。専業主婦が、正社員の男の給与が下がったことにより、労働力商品を売ったことにより、非正規労働者の収入の平均値が上がり、疎外労働を通じて内部留保に付された価値が増殖したのであって、投融資に付された価値を殖やしたことが内部留保に付された価値が増殖したことにより雇用が創出されたのではない。

紙きれの発行が増えると、製薬、石油、原子力、遺伝子組み換え食品の開発、核開発製造という疎外労働の量の大きい産業に投融資が進む。

投資を源泉に疎外労働があったから利潤の価値は増殖したのであって、原材料の発見、商品の開発製造に偶然性はない。

疎外された労働の量が大きくなり、商品に転嫁された疎外労働の量が増加するから物価が上がる。国際金融資本は、投融資に付された価値を増やす。国際金融資本は、産業資本を買収し、短期の業績悪化をフィクションする。デフレで金利が下がったとフィクションし、それに連動して国債の利子率が下がったからと後付の方便を用意する。

すなわち、多額の投資をしなければリターンを得られないから多額の投資をしたから株価や債券の価値は上がったとフィクションする。

紙切れに付された価値が減り、紙切れの利息が上がったという疎外労働をさせたことの方便を用意する。国際金融資本が労働者にした借金である国債債務を消滅させる。ピケティも、多くの経済学者と同様、恰も、「投資の増大が資本の増殖を産んだ、現金を消費して商品を購入したから資本が増殖した」と説明することにより、「現実には、疎外労働の増大によって、株価や国債に付された価値の増加をフィクションさせてきた」という事実を忘れているか、労働者に忘れさせている。

国際金融資本が投融資することによって社会が利便になったから、国際金融資本及び劣後金融資本の課税を強化してはならないとの見解がある。国際金融資本は、ピケティのいうrには、リスクがもりこまれていないというステマ記事を書かせている。利便になるということは、生活のサイクル、労働のサイクルが短くなるから、賃金は安くなる。商品の価格に疎外された労働の価値が転嫁される。

劣後金融は既に労働力商品を購入することなく疎外労働をさせて資本に付される価値を増殖させているから、新たな架空資本のフィクション、新たな民間銀行である中央銀行のフィクションできるから、労働の疎外は継続する。中央銀行の設立又は買収は失敗する。国際金融資本は、新たな架空資本による投融資を受けないし、新たな架空資本による既存の中央銀行の出資金の買取にも応じないからである。劣後資本は、国際金融資本からの投融資により、労働力商品を購入することなく、疎外労働をさせることにより、資本に付される価値を殖やしており、金融資本経済を促進する装置となっているから、オフショアを調査して資産課税の強化をすることは間違いではない。

しかし、国際金融資本は、国債を発行して民間銀行に買わせ、紙切れをオンライン上で発行させ、価値を付すことができるから、国債の返済を負担できるし、負担させられた後も紙切れをオンライン上で発行して価値を付すことができる。産業資本や労働者による国債の返済が滞っても資金繰りが不足するということはない。リスクは実体にない観念である。

劣後金融資本、銀行、大企業の労働者は、国際金融資本との資本関係にあることから、これらは、国債についても、国債債務の前払分も処分をできないから、租税は労働者に再分配されない。国債を国際金融資本に返済させることはできないのだ。

オフショアにある帳簿上の架空資本を調査することはできないのだ。劣後金融資本が、疎外労働をさせることによって資本に付加した価値は、国際金融資本が、産業資本を買収し処分をし、貸付けをフィクションして労働力を使用して疎外労働をさせて付与した価値は、国際金融資本の資本に付加される。労働に付された価値は疎外され、労働力商品の価値は疎外され、値引きを通じて租税すなわち国債の返済は労働者に転嫁される。貯蓄させられた労働の評価は、外国政府に流れるのではなく、ユダヤ金融資本に前貸しされ、ユダヤ金融資本に国債の返済を負担させられるのである。

FTとピケティは対立していないのだ。国際金融資本は、労働者は揃って貧しくなり、共産主義の著作を再評価してメディアに登場させ、後付の方便とした。資産課税、法人税の強化だけでは十分ではないのだ。

紙切れは価値属性を備えていない。紙切れは物差しではない。紙切れは、紙幣、国債も株券という属性は備わっていない。紙切れは商品であるが、価値を備えていない、実体のない観念である。

疎外労働を経た実物を引き渡して、国際金融資本が「引換証」だよと言ってきても交換に応じてしまくことを繰り返している以上は、産業資本や労働者は、紙切れの貸出を受けることを繰り返している以上は、疎外労働からは解放されない。

国債の返済からは逃れることができない。紙切れは一定枚数以上は、印刷されずー印刷されていても実物ではないー、オンライン上で発行したことにして価値を付与している。国際金融資本は、ピケティに「紙幣は印刷される」と言わせて、紙切れが実物であるかの如く吹聴させているのだ。