会計基準を規定することを巡る争いは、国の威信、面子の問題ではない。イスラム国の価値属性を付与された集団がしたとする行為は、宗教上の争いではないし、国家間の面子、威信をかけた戦争でもない。石油の販売を巡る争いではない。

ブッシュもビンラディンも劣後資本であり、ロックフェラー財団から投融資を受け、資本関係に基づいてロックフェラー財団の資本増殖に貢献しているのであって、石油をめぐっては争ってなどいないのである。

アメリカの産業資本も、密売といわれるイスラム国と呼ばれる経済実体も、国際金融資本との資本関係に基づいて、疎外労働をさせて採掘させ、決められた量を売り、代金に架空資本に価値を付与しているだけなのだ。

会計基準の制定、改定の審議会や裁判にも、左翼の価値属性を付与された学術関係者が若干名加えられるが、彼等に反対意見を言わせた上で御用学者が勝ったかのようにフィクションしているのであって、会議や裁判の前から確定案があって御用学者も左翼も国際金融資本との資本関係、生産関係に基づいて役を演じているだけなのだ。

国際会計基準を巡る争いもイスラム国とアメリカとの戦争と報道されているものも、どちらもフィクションであって、現実には、国際金融資本の資本増殖、戦争産業への再投融資、資本増殖の過程の一段階にすぎないのである。

投融資の元本に付与される価値と長期の労働疎外により戦争は国際金融資本にとって儲かるのだ。国際金融資本は、贅沢に消費ができるから儲けるのではない。

国際金融資本は子法人である電波に「紙幣は架空のものであり、偶像である」という発言をイスラム国の価値属性を付与された経済実体にさせて、その発言を批判するが、現実には、紙切れは、オンライン上の架空のものである。

国際金融資本は、民間銀行を通じた中央銀行への投融資により実体のない架空資本に価値を付与できてきたから儲けるのだ。

国際金融資本は、オフショアであるデラウェアの会計事務所が制定したものにすぎず、グローバル企業は、国際金融資本を通じた資本関係に基づいて国際会計基準やFAS基準を拠り所にして財務諸表を作成を余儀なくされているだけで、実体関係上、これらに基づいた財務諸表の作成を義務付けられているわけではない。

何故なら、実体関係上の義務としてしまうと、劣後金融資本に不利益となる会計基準が国際金融資本にも適用され、中央銀行との資本関係を土台として、国際金融資本と資本関係のある、子会社たる法人を太らせてから買収したり、経済上破綻を装って買収する過程における、資本増殖過程に応じた会計上のフィクションを行えなくなるからである。

国際金融資本は、税法においては、財団、プライベートバンク、パートナーシップ、オフショア法人を創設して実体関係を破ることによって資本増殖を行っているが、、会計においては、実体関係を構築することなく、資本増殖を行っている。

唯物論で鍛えられたユダヤ資本は、後付の方便を用意して、投融資をしたメディアに報道させ、ディスカッションペーパーや判例集を出版させる。

人民は、「ああそうなのか」と納得して、汗水垂らして労働を提供をした労働者は、国際金融資本に搾取されていくのである。

子供の頃、サンタがいないと知っている子供であったのであれば、電波に登場する学者やコメンテーターのコメントがいかに稚拙であるかがわかるであろう。

経済、政治、テロルが宗教や宗教による洗脳、イデロロギーに基づいて行われているのではないことがわかるであろう。

国際金融資本は中央銀行から民間銀行を通じて架空資本が付与されているから、湯水の如くオンライン上で紙幣を発行できるのであるから、つまりは発行したというのは架空であるから、紙切れがなくなるというリスクなど存在しない。

人民には、「私たちが生活できるのは、銀行が金を貸してくれたおかげである」とは思って欲しくない。

国際金融資本は、「神様は見ている」「一生懸命やった者は報われる」「利子をとってはいけません。

働き者から掠めとった者には天罰があたる」と僧侶に言わせる。

神、努力に対する報酬、天罰、どれも実体はない。

しかし、労働者は慰められてしまう。

資本は、労働者に「内容証明郵便を出して法的手段に訴える」と脅かす。冷静に考えて欲しい。

内容証明郵便は、国際金融資本の使用人の、当該文書をその日付で出したというお墨付きが入っているだけで、現実の経済上の事実関係がそのとおりか、実体関係上問題がないことまでをも証明したものではなく、餓鬼のお手紙である。

裁判は即行わるのではない。

労働をしながらでは難しいが、経済や法律を勉強する時間はある。

訴訟過程の基礎は、事実関係の確定である。弁護士の実力を知る者から言わせたら、弁護士は労働現場の実体を知らず、唯心論、目的論ーこれらは架空のもの、フィクションであるーを用いるから、疎外労働の実体を知っている労働者にとっては、弁護士は決して勝たない相手ではない。

しかし、労働者は、目的を問われて目的を考えて答えれば、現実の事実確定までの過程が架空のものであること、フィクションであることを認めたとして敗れてしまうであろう。

株主代表訴訟にしても、損害賠償義務のある資本が、使用人にすぎない役員に損害賠償を負担させているのであって、労働法実務も役員と使用人を区別してそれを追認し、同じ労働基準法の全額給与支払い、債務との相殺を禁じる規定と矛盾するものとなっている。資本は、「労働者に仕事を取る力がないから、仕事を取ってきてやったんだ。俺の魅力や俺を信じて契約してくれたのだ」という。

他の経済実体は、その企業の内部留保、商品、労働、その過程を評価して契約する。資本の魅力や信用は実体のない観念である。現実に労働を提供したのは労働者である。

にもかかわらず、資本は、恰も資本が労働をしたかのように、顧客に資本の口座に価値属性を付与させる。労働者には労働力商品の代金分しか価値が付与されない。

資本は、労働者を労働力商品として安く労働力商品と時間を買い、休みなく働かせ労働力商品を超える価値を商品、役務に付与し、労働の価値を疎外する。労働者ー疎外労働をさせることの装置となるプチブルをも含むーに結婚させて労働力の再生産をさせて労働を怠けさせない。

資本は、代理人を雇って「お前の幸せを思って結婚させるのだ」と言う。幸福は実体のない観念である。誰も奴隷の幸せを願っていない。

「消費者の役に立ててよかった、だからやりがいがある」と消費者との取引現場において感じたのであれば、「お客さんの笑顔が見れれば、俺は金なんか要らないんだ」と思って欲しくない。

これでは資本の宣う「やりがい」「社会貢献」といった奴隷の道徳にはまることであり、資本の思う壺である。資本から価値を取り戻すことに、卑しいという価値属性は備わっていない。金にこだわって欲しい。

労働の安売り競争によって、あなただけではなく他の労働者の生活を難しくさせるのだ。

役員を含む労働者は、需要は現実にあるのか、納期までに完成しなかったら死ぬ人がいるとでもいうのかを考えて欲しい。

徳目も、国際金融資本と同じ資本関係にある日教組も素直さを説く。実体のない観念たる性善説を説く。

素直な人間は搾取されるのだ。