人間の誕生から生存、死へのプロセスについては存在するが、そこに時間という属性は備わっていない。
土地を収奪し、生殖を行わせ、奴隷を調達し、産業を興し、内部留保を土台に、生産物を搾取し、王族として社会に自らを認めさせた。
産業資本は、金に価値という属性を与え、それを商品として、生産した商品との交換に用いることに成功する。
産業資本は、王族への物納という関係から金庫に金を備蓄せざるを得ず、各産業資本家は、金を一箇所に集め、産業資本家の代表が、一括管理し、証書すなわち紙幣を発行する。産業資本家の代表は、王に雇用されており、生産関係を土台に王の現金管理をさせられており、現金は無記名である。
産業資本家は、王族貴族に貸付け、担保財産の略奪に成功する。生産手段を有する資本家と生産手段を所有しない労働者という分化が成立する。
分業は自然発生的に生じたのではない。
金融資本家は、紙幣の印刷から、現預金の投資、生産手段の購入、労働力の購入、生産、流通、回収、再投資をはじめ全ての生産関係、経済関係のプロセスについて、秒、分、時間といった属性を込め、それを社会の認めさせた。
金融資本家は、産業資本に内部留保を蓄積し、他の金融資本家に中央銀行、所有産業資本家との資本関係を買収しえなくする。
産業資本家は、金融資本家との資本関係、利息配当の原資という経済関係を土台に、他の資本家や労働者に安く又は高く売り、労働者に価値なるものは備わっておらず、時間という物に込められた価値すなわち商品1つあたりの労働時間を労働力に価値という属性を込めて内部留保を蓄積せざるを得なくなる。
現実には金融資本家との資本関係に基づいて、限界概念を算定し、歴史という主観である価値の平均生産性、それを基にした平均賃金という方便を正当化するのである。
労働という存在のあるものに、その生産関係を離れて価値という属性を込めている。労働については、生産関係における全事実関係を拾い上げることをせず、拾い上げても差異や複数の事実関係を類型化、二項対立させたりして捨象し労働者の利益を排除し、労賃を絞るときだけ差異や複数性を持ち出し、専ら資本関係に基づく内部留保の面から価値が規定される。
労働力に込められた価値を商品価格名義に転化させざるを得ない。
分業においても、労働は疎外される。
現実には、実体のある労働を実体のないものにフィクションされてしまったのである。生産関係に規定されてしまったのである。労働に価値という属性を込められ、独立した自由意思による自己責任という方便を課される。貨幣が商品の価値を決定するのではない。
商品は、物としての実体は存在するが、価値という実体は存在しない。商品を譲渡することによって、労働の価値を社会に認めさせることに成功する。
よって、物価変動によって価値が規定されるのではない。価値は、人と人との関係によって規定されるのではない。
人は、資本関係、経済関係によらずにその自由意思により経済を行うことができないから、自由意思により人を支配非支配の関係を創設できないからである。
物に使用価値や交換価値という属性は備わっていないから、使用価値によって規定されるのではない。
価値は、 当該資本家の経済関係、生産関係、資本関係から規定せざるをえない。現金は、金という物としては存在するが、価値という存在は持たない。
搾取の土台となる投資現金は所有主を持たない。
搾取の結果である内部留保を構成する現金も所有主を持たない。
現金は、価値という属性を備えていない。
関係者、第三者によって、掠め取ることができるし、別個の掠め取って内部留保を蓄積し、資本関係を創設して価値という属性を与えることもできる。
したがって、資本金、開始時B/Sをはじめとして登記し、資本を土台に労賃を搾取を開始しうることを社会に認めさせることに成功する。
法律上の権利か、経済上の実体が乖離することは、経済利益を法律上の利益として社会に認めさせるプロセスに鑑みれば、法律上の権利義務と経済実体が異なるということは成立し得ない。
ロックフェラーにしろ、ロスチャイルドにしろ、両者に所有されている大資本家も、直接、手を下さないだけで、現象ではなく、資本関係、経済関係、法律関係、社会関係に基づいて、資本関係、経済関係を公開し、それを社会に認めさせざるをないから公の場に登場している。
ロスチャイルド、ロックフェラーを頂点とする対外問題評議会も、メディアを媒介に、存在を認めさせざるを得ないから公の場に登場している。
影に隠れて経済を行っている者の利益を収奪することなど容易である。利益が大きければ大きいほど表に出ざるを得ない。
イルミナティなる宗教を媒介にした謎の陰謀組織など存在しない。宗教団体に自らの意思で陰謀を企て得る金がどこにあるというのか。
ブルジョア経済学者や税理士や会計士が方便を見抜けないだけである。税務行政を所有する資本家は、法律上の権利は実在せず、経済上の実体のみが存在し、両者が乖離しうるという、唯名論に基づいて、課税を行わざる、課税を受けざるを得なくしているのである。