国旗掲揚国歌斉唱の際の不起立に対し、都の教職員に戒告処分を行ったことに対し、最高裁は、16日、当該戒告処分を裁量の範囲内であるとした。国家とは、人民が居住している生存圏のことではない。ブルジョア階級の利益集団であって、人民はブルジョアによって、軍隊に組み入れられ、戦地に行くことを強制され、派遣され、学徒動員を文部省が通達したことは既成事実であって、被害妄想ではない。
ブルジョアを愛する愛しないは、個人の思想信条の問題であって、学問や政治経済、社会生活を行う上でブルジョアを愛する心など必要ないものである。ブルジョアジーを力づくで愛することを命じることは学問や行政を唯心論により行うこと、すなわち、経済関係社会関係といった対人関係を離れた暴力行為を肯定することである。
ブルジョアは、自らの経済政策について根底にあった経済関係からにいかに創り変えてきたかの、その根拠を説明できないから、政治家や司法、警察、軍隊、教育、宗教、道徳の力を用いて、実体のない観念である方便(大義、目的論)によって従わせるのである。戒告処分は、戦前戦中の特別権力関係論を彷彿させるものであり、行政の既成事実としての処分権限を逸脱した行為である。
日教組をはじめとする教職員側は、唯心論的な方法論から戦争、国旗国歌について批判するだけであるから、ブルジョアとの争訟に負け続けるのである。学校は、学問を行う社会である。学問は、問題提起を行い、学内外の問題について互いに批判し合うことによって、他の経済関係社会関係、見解を知ることにより、再反論を考え、自説を補強発展させていくものである。ブルジョアや政治家や教師等が、教師、生徒をはじめ、人民に向かって「お前たちは馬鹿だから黙って俺に従えばいいんだ」と言って、抑圧するようなことがあってはならない。ブルジョアが人民を愚かであると定義するのは、人民が自分たちより賢くなっては困るからである。ブルジョアは、小泉自民が圧勝したときのような衆愚政治を期待して、すなわち、効果を期待して、反対勢力を弾圧する唯心論者なのである。