意思は、他の条件によって決定される。意思は、決して独立ではなく、多くの原因に依って決定されるのである。社会の存在なしに社会から離れて個々人は、考えられないのである。社会の変化は、社会と国家(ブルジョア)を区別しない(同一であるとする)ブルジョア学者は、例えば、社会の変化は、契約や和解により成立するとしがちであるが、契約締結や和解成立で、社会を創設するのではない。社会的関係により創設するのである。自由意思ではないのである。意思に自由などないのである。契約自由の原則などブルジョア学者により、作出された概念である。
人は、家庭や学校で教育され、統治の道具である言語を話し、歴史から構成されてきた概念で考え、道徳や慣習に影響を受ける。個人の意思(目的、主観、心理)から社会の発達を説明することは不可能なのである。別の例を挙げれば、新しい機械の発明は、既存の科学技術及びこれらによって投じられた問題、生産諸関係(剰余価値の増殖、労働に必要とされる生産用具など)の要請から出発する。
買い手は、商品を購入する際、商品を何で評価するかについては、先ず、個人的評価、市場において既に存在する価格と比較する。個人個人によって、つまり心理によって、相応であると考える価格をもって評価額を説明しようと思っても議論は循環するだけである。事実認定、法律の解釈及び適用に際しても、問題提起や事実関係から出発し、必然的条件(原因、諸関係)を発見する。決して、結果から目的を探るのではない。結果から条件(原因)を探るのではない。この場合、手段は、説得力は弱いが、他人を説得させることに、目的を成立させることに、目的を正当化することに成功しうるということにすぎない。ところが、短気なブルジョアは原因を知りたがらない。願望(目的)と必然(現存する原因、それによって惹起されるところの原因)は別物であるにもかかわらず、願望を実現したがるだけである。手段と目的が一致するというのは、宗教である。
社会や団体は、指導者なしに成立しえない。指導者を偏重することは、宗教である。社会が勝ち組を味方する、彼に注ぐ力は見過ごされがちである。指導者としての機能を果たしうる能力が必要とされるところ、ブルジョアたちは、こうした能力を有する者から、継承するのが当然であると考えているのである。こうした人間思想の保守主義の力は強いものがある。国家に承認されたブルジョア科学も発展してきた。
現在では、物質に関し、何ら性格を持たない、他の物質と相互関係(連繋)、新しき性格の付与により、つまり、ある説明物質を説明するのに「等」を多様しなければ、説明しつくすことができず、機械的なものと有機的なものとの対置は意味がなくなった。目的論者たちは、ここでも、神秘性を付与するようになった。
では、全ての問題を説明するのに、生産関係(経済的要因)は、最終的な要因となるのか。確かに、意見や生活条件は生産関係に依存する。既存の生産関係と意見並びに生活条件とのを乗り越え、新しい生産関係の上に意見や生活条件は再生産されていく。再生産の過程で意見は媒介的契機となるにすぎない。意見や生活条件に対する評価は量的差異(程度問題)に関してではない。生産関係は、現実的総体系である社会と変形しうる物質との間の相関関係を体現しているからであり、この相関関係が生産関係を決定する。人間関係は、心理的相互作用を前提としているではないかとの問題提起がありうるが、例えば、生産関係を場所と時間における、資本家によって生きた機械と看做されている労働的協調と解釈すれば、歴史上の一点の場所に限定することが社会関係ということができ、心理性は消滅する。