目的は、意識して設定するものであり、即ち、願望を持ち、この願望を目的として設定し、この願望を充足するために努力する(目的に接近しようと努力する)場合に、あてはまる概念であり、精神論の一つの例示と言える。
意思は全く自由で何物にも束縛されない、意思は物質とは独立しているとする論者は、思考することのできない物質に、つまり自然に対し、意識をもっているかのような性格を与え、これら物質の仕業とする。偶然や生理的原因のせいにする。ブルジョアジーはこれを望む。世の中に何ら原因のない偶然など存在しない。一定の法則性に従って行なわれるているように見える行為や作用も必ず原因がある。
偶然とは、原因を充分知らないが故に、偶然と見えうるのであって、ブルジョアは科学的に構造を理解しないまま無知な領域を乗り越えようとする。何でも思い通りになると思ってだだをこねる。社会
現象(所産)は、各個人の相異なる、相反する意思(目的)の合成としての集積であり、実際にその行為の結果は、当初の意図された目的に合致しないことがある。
人の意思(目的)一定の原因が存し、その原因によって、条件付けられる。効果を目指して行動しているわけではない。自らの意思が社会的関係から独立しているとして行動するのは、資本家である。その例が市場価格である。買い手が安く買おうとするのは、買い手という関係にあるからであって、売り手が高く売ろうとするのも売り手という関係にあるからである。
売り手と買い手が衝突する。労働者を搾取することによる大資本主義的生産による廉価販売により、零細業者が破産に至る等個々の願望と一致しなかった者が現れる。そして、社会的現象(価格)が個々の(個人的)現象(評価)に決定的に影響を及ぼすのである。
人間は実践によって、自由意思を覆しているのである。各個人の行為も何らかの関係等に依存しているのである。例えば、個々のケースは、際立った役割を演じるわけではなく、多数の類似するケースの集合・結合によって、偶然を消滅させる。集められたものの個々の役割、意義、総合的な影響がその後の発展に資するのである。社会的現象(類似的性質)を有するものを必要とする。ただ、こうした集積・結合により形成された社会的現象(社会的文化、社会的諸関係)は、単に多数の人間に認めさせることに成功したにすぎず、必ずしも妥当なものであるとは言い切れないことは、再三述べたとおりである。