日本国憲法84条は、下記のようにいう。

あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。

租税法律主義は、下記のように説明されることがある。

租税は、公共サービスの資金を調達するために、国民の富の一部を国家の手に移すものであるから、その賦課徴収は、必ず、法律の根拠に基づいて行わなければならない。換言すれば、法律の根拠に基づくことなしには、国家は、租税を賦課・徴収することができず、国民は、租税の納付を要求されることはできない(金子宏・租税法17版70頁)。

租税法律主義とは、一口に言えば、議会のみが課税権を有するという法理である。もともと主権者である国民が課税権を有するのであるが、国民の代表機関である議会が国民に代わって法律を制定するという形でその課税権を行使する。租税法律主義の下では、国民は、議会の制定した法律の規定するところ以上には、納税義務を負わない。いかに国家の徴税機関といえども法律の規定する以上には、租税を徴収することはできない。つまり、国民は、法律の規定するところ以上には、租税を徴収されないという権利をもっているわけである(北野弘久編現代税法講義2訂版13頁[北野弘久執筆])。

租税法律主義は、要するに、原則として、租税に関する重要な事項については、すべて法律でこれを定めなければならないものである。重要な事項としては、納税義務者、課税物件、課税標準、税率などの課税要件のみならず、租税の申告、納付、課税処分、滞納処分の手続きなどが含まれる(最判昭和37年2月21日)(清永敬次・新版税法全訂版29頁)。

課税側である国際金融資本と納税者との法律関係は、租税が、人民の生活手段をも収奪することに鑑みれば、両者の関係を明らかに一方的な命令服従関係ととらえる権力関係説があてはまる。

債権者は、労働を疎外されている人民であり、債務者は、金融資本である。

国家をフィクションした国際金融資本と人民との関係を対等関係としてとらえる債権債務関係説は、確かに、既成の諸関係を乗り越える上では、必要な議論ではあるが、租税に関する債権債務は、金融資本の経済関係からフィクションされたものであって、租税法律関係の基礎となる既成事実としての認識としては甘いものと言える。

よって、租税はフィクションであること、租税法律関係が権力関係構造を有する以上、法律の規定するところ以上に課税を受けない、国際金融資本は、議会が制定した法律の規定するところ以上に租税を徴収できないとする租税法律主義によって、制限を受けることとなる。

このことは、財政権力行使の点から、日本国憲法84条で、国民の納税義務という点から日本国憲法30条において、規定されている。租税法律主義は、課税要件事実の他、納付・徴収等の手続きについても具体的且つ明確に定めることを要求し、不確定概念、国家の自由裁量を認める規定は、憲法84条に違反する違憲無効なものと解される。現実には、一旦は、課税関係がフィクションされるから取消事由であろう。

これに伴い、通達の法源性は、否定されることととなる。すなわち、通達は、納税者や裁判所を拘束する力を有しないのである。命令(政令・省令)において法規を定めうるのは、法律が命令に委任した場合のみであり、包括的一般的な命令への委任は禁止される。

租税法規の解釈に当たっても、類推解釈、拡張解釈が禁止される。行政先例法、行政慣習法といった不文法は成立しえない。先例や慣習は、行政や財界によって、あらゆる媒介を通して、認めさせてきたにすぎず、歴史を絶対化してはならないのである。納税者に不利益な租税法を遡及して適用してはならないし、租税法の解釈及び課税要件事実の確定において、複数の見解が成立する場合には、実体のない観念である「疑わしき」は納税者に利益を留保する。

租税法律主義から導き出される理論は以上のようなことであるが、所詮は、イデオロギー(観念)にすぎない。

租税法も所詮は、議会によって制定されるものであるという建前である以上、現実には、官僚は、国際金融資本との資本関係、生産関係をフィクションされて教育され、議員は、ロックフェラーやロスチャイルドによって抜擢、雇用され、グローバルに展開される金融資本、大企業資本の利益に基づいて、官僚が立案し、議員がシナリオを読み上げて決定されている。国際金融資本は、経済関係のフィクションによって、法を破り特例を認めさせる。よって、租税法律主義自体は自己完結的なものではない。決して、万能なものではないのである。法律による暴力に鑑みれば、租税負担公平原則(憲法14条、25条)等他の法理論は実体のない観念であり、個別実体法・手続法上の規定による補完がなされなければ、とてもではないが、税法上の諸問題の解決することはできないのである。

課税に関する実体関係(法律関係)を規定するのは、フィクションされた経済関係ではなく、現実の経済関係である。よって、債権者は、労働を疎外されている人民であり、債務者は、金融資本である。

租税は、公共サービスには使用されない。労働者に貸付けをフィクションし、国債をフィクションし、疎外労働をさせ、負担させる。それが租税である。公共サービスをさせられているのは、民間企業に貸付けをフィクションしている金融資本の労働者である。租税は、疎外労働が低く評価される社会福祉でなく、高く評価される原子力、製薬、石油、種子に投下される。

憲法自体は、ロックフェラー、ロスチャイルドの財閥等国家が人民を従わせるための象徴すなわち権威としての天皇制という建前で、劣後国際金融資本である天皇の権利を存続させている点等の問題は残るが、憲法9条等をはじめ日本国内の大企業資本に力をつけさせないという経済関係から、第三者たるGHQによって、定められた経緯から、個々の用語の使い方には疑問が残るが、人民の側からみればある一見まともな法律となっているように見える。

しかし、規定自体が純粋且つ抽象的であるが故に、納税者側が道徳規範的な使い方をし、又は、国家側に道徳規範的なものと同類のものであると受け取られた場合に、国際金融資本の行動を変動させることが難しいという弱点を産み出している。国家側が税金を取らんがために道徳規範的に用いることはもっての他である。国際金融資本の下で、訓練されたエリートが司法を演じていることもあるが、税務訴訟で、納税者側の勝訴率が低いのはそこに原因の一端があるのではないか。