法律は経済戦争の勝者が、略奪や日常の消費財以外の所有を正当化し、問題を単純化するために、作られるため、法律や契約によって世の中の諸関係全てを映し出すことができるほど、この諸関係は単純ではないのである。法律さえ守ればそれでよいと法を絶対化するのは、ブルジョア的思考、資本主義者の態度である。

では、道徳に解決を委ねることは、あまりに安易すぎる。問題解決の方法として、類似の思想を持つ者や生産諸関係における類似の地位の者を束ねて集団化を図るという方法が採られうる。確かに、一人の人間の力で解決が図るには限界がある。

しかし、集団化には暴力や細かな見解における差異の抑圧が伴いうるし、集団への服従が要請される。集団化や結社はあくまでも便法にすぎない。

また、自らを天上人とするリーダー(独断)になって物事を見ない方(つまり、問題から一定の距離を置いてみること。

しかし、傍観者になることではない。自者としての生徒になることである。教室の一番後ろの席やバスの最後列に座ったときのことを考えてみればわかりやすい。)が全体化できる場合もある。「教師になるな」とはこのことを示している。当該問題事案に係る全ての面を映し出すには(全体化)、集団化しない方がよいと思う。

個々に交渉し、下手に秩序立てたりしない方が全体化の可能性が高まると思われる。個別の論点の集積によって、全体化の達成は近付くのである。ただ、強制力や統一化プロセスを伴わない集団内での議論(思想を交渉させること)による乗り越え(集団内におっける批判に対抗するための反論を考えること)作業を通過していないという弱点は残る。

時に議論し、最終的には自らの論点を持って、各人が他の利害等を持つ者との交渉にのぞむことによって、問題解決を図る必要がある。