資本主義も共産主義も共に生産体制であり、私的所有を明確に否定しているわけではなく、相対立する概念ではない。

どこが違うのかというとそれは、問題解決の「方法」である。

仮説を立て(問題提起)を立て推論を行なうという点で両者は同じである。違うのは、共産主義は意見の相違や既成事実として暴力が存在しているということを出発点とするが、資本主義はそれらを出発点としない。

しかし、そこから先は、共産主義は、歴史を読解し、生産諸関係、政治的諸関係等を相互に関連づけ、当該問題事案に係る全ての面を認識し、記述して(全体化)、検証を行なうのに対し、資本主義は実証のみで検証を行なわない。

つまり現在までを含めたところの歴史や自国を絶対化し、環境、機会、自然、神(これらの言葉は人格を持たない)といった言葉を用いて思考を放棄する。

にもかかわらず、資本主義は、自らの体制が永続するものとし、また、永遠化しようとする。共産主義は、変化が常にありうるものとして予測する。

共産主義は自己の生存するコミュニティの歴史のみならず、同時代の他のコミュニティ及びその歴史にも関心を持つという意味で国際主義である。

物事について秩序づけを行い、法律や契約によって問題の単純化を図る。物理学をはじめとする自然科学の分野へ逃げ込む。

彼等にとっては、逃げ口上としてこれらの学問が必要なのである。金額という他の原動力より注意を要しない、これ以上明瞭且つ単純な存在はない数字(統計又はフィクションすなわちモデル)を用いて説得にかかる。

これらのことは、資本主義における学者の論文やジャーナリストのコラムを読んだり、ビジネスマンや経営者と話しをしてみればわかる。

現在までのところ、共産主義体制が存在したことはない。

共産主義は大義にすぎなかった。

資本主義国家同士が、経済資源や海外植民地等の奪い合いの過程で、指導者はどの国家においても資本主義者であり、宗教(義務であることをを忘れさせる。よって、暴力を提供する。宗教は振りかざす者にとっても、宗教にすがる者にとっても、自らが抱く劣等感から生ずる。)や道徳(道徳の純粋さも暴力である)、時に暴力を用いて集団内部を統制しているにもかかわらず、敵対する相手を共産主義と定義し、共産主義という言葉に「自由の抑圧」や「暴力」という性質を与えてきたにすぎないのである。資本主義はこのプロバガンダによって、大人を子供を教育してきた結果、承認するこことに成功したにすぎないのだ。

しかし、資本主義の下では、思想の自由が認められず、個々人に思想がないのと同じであり、資本主義者は、単独では、他の思想に打ち克つことができないから、知識人に力を借りたり、公的権威のお墨付きを得ようとしたり、暴力によって自らを絶対化するという8歳児の思考なのである。

モテナイ優等生に肉(彼らは女を肉だと蔑視している)をちらつかせて頑張らせる。肉に力を与えず、追従を伴う資本主義思想を必要だと感じさせる。地位や勲章がもらいたいという野心に期待する。

アメと鞭を巧みに使い分けるのだ。

人民には義務だけが認められ、国内競争の勝者がその者に対して義務を負っていると認識した場合のみ、人民に権利が与えられる。

彼等は、集団化を行い、集団が見解を有するようになると、集団の成員に指導者の思想を強制する。

労働を絶えず与え考える時間を与えなかったり、人民に失業により居場所がなくなることを恐れさせるのだ。

神話の中に身を投げ込ませるのだ。

あまりに集団における意見の一致が見られるときには、有形、無形の暴力を疑ってかかる必要がある。やたらと主語が「我々」「我が国」となっていたら要注意である。

意見を翻した側も以前に比べて理解をしたわけでもなく、自己の見解を乗り越えたわけでもないのである。受身たる他者となったのだ。

こうしたプロセスは、幼少期における教育の段階から、ブルジョアの子弟と大衆とに分けて行なわれる(現在も学習指導要領とは別に、経団連が定めた私立学校を対象とした教育スローガンが存在するといわれる)。

大衆の子供たちは、彼をとりかこむ諸関係や過去の歴史から引き離し、真理とは無関係な中で育てられる。自分がブルジョアになれないのは能力がなかったからだと思わせる。

そうなれば、後は、暴力に加担するか、思考を放棄して生きるかしかない。そして大衆文化が形成され、社会的(人格を有する)な存在として認知される。

一方、ブルジョアの子弟には、国家の偉大さや、神聖な、つまり決してその性質を明らかにしないところの義務としての愛国心が植え付けられ、自らを帝王と規定させ、全体主義に憧れさせる。こうして、他の階級に利益を渡さないように交代が行なわれる。家族は富の伝達手段として把握され、子弟を持つ者に輝きが与えられるのである。