物事には絶対的な真理はない。唯一の価値感はないし、多様な価値感が混沌としている。結局は自分の信じるところに向かっていくしかないのである。

人はいい奴ばかりでないし、いい人と社会的に認知されている人でも、全てが正しい人はいない。人は嘘をつけば人を騙す。だから、批判する自由がある。言論や出版の自由がある。

ただ、異なる考えを許容する必要がある。資本主義者だから、共産主義者、他の思想に転向したからだから認めない、と相互に排除してはならないのである。

自らの利益、自らの目的のために、「お前のために」と称して、宗教、道徳、心理学を駆使して、又は、社会によって指定された地位に応じて、相手の意思を定義して、自分の意思を押し付けようとすることは、たとえ、有形力を行使していなくとも暴力である。相互に理解し合うことが必要となってくる。

これは、協調することや社会的状況により転向を考慮に容れることを意味するのではない。個人の内面において思想の左右のバランスをとる事や思想が中道であることを意味するのではない。恣意を抑制することと思想のバランスをとること及び中道であることとは別物である。

社会がこうした協調、転向、思想のバランス、中道であることを要請することは、暴力と異なるところがない。相互が自分の利益のために、略奪し合うことをしないというのであれば、自己の思想を他方に強制する機関は必要がなくなる。

勝ち組結社たる国家は不要となる。財界に操られ、人民を操る技師たる政府も必要がなくなる。誰かが一旦政権を取って独裁するというプロセスも不要である。したがって、集団の目的のための自者と他者の関係も消滅する。

これらのことは、考慮することをやめたり、人に無関心である無政府主義とは異なる。他人を理解する必要性は依然存在するからである。こういうことを言うと国益を目指すためには、異なる価値感を束ねて一体感を保つ必要があるとする論者もいるであろう。

しかし、勝ち組が歴史的に認めさせてきたにすぎない既存の組織の中で、個々人の役割を定義づけるからおかしくなるのであって、そもそも同じ方向に向かせようとするから、絶えず戦争や暴力が行なわれるのである。個人より国家、すなわち、勝ち組や財界を優先するという出発点がおかしいのである。そしてまた、勝ち組に乗っかり、勝者は常に正しい、勝者の暴力は合法的であるという思想を持たない人間が暴力の肯定という恣意的な自由の存続を補完するのである。