資本主義国と呼ばれている地域で行なわれている生産活動の内、例えば、必要性の観点から、適正在庫の把握、原価計算、期待利益の見積もり、現在価値の算定、予算の編成、財務分析といった行動をとること及び生産関係に生じる諸問題を仮説と推論を立て科学的に検証し、乗り越えていくという過程は、いずれも共産主義者としての行動である。
しかし、自者や他者等の事実関係や生産行動を無視し、偶然や人間の力を超えた自然の力の仕業としたり、当然の帰結としたり、人民の未熟さのせいにしたり、心理状態、意図をあてに原因を求め、思考を放棄することにより、つまり思考の純粋さ、率直さ、未熟さ、幼稚さにより、論議を尽くさず、反対者の発言を遮るといった手段をとることにより、必要を超えて余剰生産を行なわせる、剰余価値を生むだけで必要のない物の生産を行なうことで、資本家や経営者を富ませ、独占させるのが資本主義の問題点である。
そして彼らの恣意すなわち暴力を自由という言葉で覆い隠し、自由という言葉は、暴力を正当化し、補完しているのである。
そして、法は暴力を正当化し、法律上の価値を与える。
富の獲得者は、既に獲得した契約に支えられ、富を普遍的なものとするため、確証のある意見や進歩的な思想を排除する。予め、反対意見を持つ者を挑発する。
挑発に乗ってきたら数の力で勝とうとする。
幾何学、統計等を用いて正当化しようとする。こうした事を人は繰り返してきた。
統治(政治)こそテロルなのである。人格のない歴史が人を利用するのではない。
人が暴力を使用して思考停止にするのだ。反対することから退却した人間は同意したものと看做される。
司法は、ナンバーワンによって形成された社会の要請により判断を下し、個人が判決に逆らえないよう予め個人に確認をする。
こうして個人の思想が原因で裁かれるのである。
日和見主義の御用学者は、自らを世界の中心において考察し、ナンバーワンが正しいものとして、歴史を追認する。
ブルジョア政府を擁護し、資本家の勝利を予言することばかりを自者としてあるべきものとして主張を行なっている。
往々にして、日和見ブルジョア主義者は、変化を好まず、守護神にすがり、神秘や不可思議を好み、世界を意志の顕現であるとする精神論者であり、がつがつした人物である。
歴史を読解できないから、また、仮説を立て推論を行い、検証をするといったことができないから、何でも、政治家や実行者たる官僚が悪いことにしてしまえばよいとするのである。
政治家は、政治家自身があてにする諸力によって規定されるものである(自らの思想は反与党でありながら、自らの観念を実現するためにあえて与党に入党したと称する者は信用されないのはここに理由がある。)。
だから、財界をはじめとする権力の側にも馬鹿にされるのである。人民も日和見主義者同様、ブルジョアの使者たる政治家や官僚を批判する方が簡単であるから、政治家や官僚を批判し、ブルジョアを批判しない。
状況(環境ではない。諸関係のこと)に応じた判断と日和見は、違う。前者が物的関係に基づいて思考を行なうのに対し、後者は行なわないのである。
判決等によって、確定された結論も、まず、判定者が採り得るいくつか選択枠があって、決して反対か賛成かの二項対立ではない。
判定者の分類上の便宜であって、一般化・抽象化することにより各選択枠間の差異を捨象すること、すなわち、思考の後退である。そして結論は、判定者が採り得る選択枠の中のひとつであって、唯一の価値判断ではないのである。
いくつかの選択枠を排除してきただけなのだ。
歴史である裁判例は、判決を正当とする解釈によって支えられてきたに過ぎないのである。主人だけの歴史なのである。
判断に歴史のみを持ち出すこと、歴史を唯一のものとして論議を閉じること、歴史に絶対的な意味を持たせることは、判決の結果だけにこだわることは、暴力を自由に置き換えて正当化するブルジョアに逃げ口上を与えてしまうのである。
但し、歴史から距離を置き過ぎると戦争や暴力に憧れるということになりうる。