資本主義と共産主義は対立する概念ではない。共産主義というといかなる人間も収入が均一で、個性を認めない、努力しても報われない、だから勤労意欲が損なわれる、生産力が向上しない、経済的に豊かになれない、科学技術が進展しないと誤解して毛嫌いしている人が多い。私的所有を認めずに財産は全て国家に帰属すると瓦解している者も多い。

共産主義とは、社会保障等を充実させ、貧しい家庭に生まれた者や心身に障害のある者等も、さらに、こうした状態にない者も個々人の生産に係る能力や努力に関係なく(生産能力に関係あるとし、能力のない者、努力しない者について、健康的、文化的に最低限の保障を行なうとするのが社会主義)、必要なときに必要なだけ、欲しいとき、欲しいだけもらうことができる体制のことで、貧困をなくし、だれもが豊かに暮らせるというものである。

過労死するまで働いてブルジョアを儲けさせなければ生活できない世界はアブノーマルである。個々人において、必要であると考えるレベルは異なるわけで、努力したい人、もっと必要だと思う人は、努力してさらなる収入を目指せばよいわけで、全ての収入が均一になるわけではない。

つまり、自分以外の人間から略奪して「余剰な財産」を所有しなけば、収益の向上を目指すことを妨げるものではない。略奪のしての軍事力も必要がない、その媒介となる大義も消滅する。つまり、資本増殖のための武器の生産をさせられるということがない。

よって、社会保障や生活必需品の研究開発に予算を回せる(事実、国家予算に占める軍事費の割合が高い国の人民は例外なく貧しく貧富の差が激しい)。仮説や推論に基づいて生産が行なわれ、合理的な生産が行なわれる。

つまり、自分自身で自分の収入その他到達点を決められるのである。不必要な努力はしなくてよいのである。科学的分析により高い生産能力があるから、必要に応じて働き、欲しいだけもらえるということが可能になるのだ。

だから、余剰物の量産等の要求からの重圧に悩まされることもなく、思考する余暇もできる。財界や家族の意向に左右されずに、自分自身でその到達点を決められるのである。合理的だけでなく実は、個性を尊重した自由な柔軟な思考を認めるものなのである。共産主義は、資本主義を更に進歩・発展させた資本主義の延長線上の概念である。

そしてやがて国家は消滅する。国家や家族を持たない主義であるから、財産が国に帰属することはありえない。実際、米国以外の資本主義国と呼ばれる国は、共産主義のエッセンスを採り入れて経済的に豊かになっている。

日本もかつては、共産主義国と呼ばれる国から視察団が訪れるほど、共産主義のエッセンスを採り入れ高度経済成長を実現し、最も経済的に成功した共産主義国と言われたのである。実際、共産主義と経済成長は両立しうるのである。これは、単なる偶然ではない。資本主義について研究しつくしてその限界を明らかにした結果である。

しかし、生産手段かつ権力装置である、学校・職場・家庭・軍隊・監獄・青年会議所、対外問題評議会等では、富を独占したいがために、資本主義に抵抗するというだけの思想を、スターリンや金正日を例に挙げて、先に共産主義国と名づけ、そこに、収入が均一、多様な価値感を認めない等の誤った性質を恣意的に与え、怖がらせてきた。

ノーメンクラトゥーラ、いわゆる赤い貴族は、共産主義を曲解して時に暴力を用いて私腹を肥やしてきただけで、共産主義者ではない。そのように誤って教えられてきた者がきちんと資本主義、共産主義を理解しないままにこれらについて語り、共産主義を毛嫌いしているのである(こうした面から反共なのは日教組も同じ)。共産主義は怖くは無いのである。人民が怖がってくれているのは、反共キャンペーンが成功した証である。

資本主義者、特に市場原理主義者は、富を独占したいから、単一の価値感しか認めない。理論に論旨一貫性がないから、人民を説得できない、だから権力装置を使う。数の力で勝とうとする。あたかも自由と平等の国を名乗るが、経営者や資本家等が世継ぎ以外はやりたい放題という意味で自由主義というだけで、労働者には自由がない。そうした構造を理解せずに大多数の人間は、新自由主義を賞賛し、いないのに自民や民主に投票する。

国際金融資本が出資設立した自作自演の電波に洗脳され、小泉や竹中や世耕や小沢一郎、西村、前原のような人間に人気が集まる。反対論者は監獄等へ連れていかれる。金持ちだけが行列に並ばなくて済む(共産主義は一部の人間による独占がないから物資は円滑に流通する)、金持ちに生まれた人間金持ちになれない、それ以外の者は、努力だけでは金持ちになれず、努力すればするだけ搾取される。

金持ちと家族になった者しか金持ちになれないのはむしろ資本主義の方である。金持ちは突然現れるのではない。金持ちに生まれたのは偶々ではない。金持ち喧嘩せずは嘘で、金持ち本人及びその先祖が喧嘩が強かったからで、直接手を下さないから喧嘩しないように見えるだけである。政略結婚して金持ちに味方して出資してもらったり、兵隊を派遣してもらって略奪と搾取に成功したのである。努力して秀才だとかエリートとなって金持ちになることに成功した者が極稀に存在するが、努力したから金持ちになったのではない。

努力だけでは搾取されるだけで金持ちにならない。努力してもそれを売り渡さなければ、金持ちにはならない。労働者を絞らなければ金持ちにはなれない。既存の金持ちや高い金をくれる奴等のためだけに働き、既存の金持ちが行なう弱い者いじめに加担した結果なのである。それ以外の人民は、生命維持の手段として労働に同意し、物資の移転や原材料から製品への仲介及びその道具の付属品として従属を強いられるのである。肉体は生きているが他者という意味での「死」が日常なのである。