既存の物事の内に、自らの欲するものがあって、あらゆる仮説を立て理論的に分析しても解決の糸口がつかめないことがある。具体的な問題になればなるほど、上記のアプローチでは、解決の糸口を発見することは難しい。そうした局面に直面したとき、人は、自らの限界を知り妥協点を見出そうとする。

しかし、一部の者は、自分自身を絶対的な存在であると規定し、つまり自分を絶対化し、あらゆる手段を使って解決しようとする。そして、富を永続させようとする。記号を用いて既存の関係を類型化したり、さらに、その類型化を簡略にするために、自分たちに有利な法律を立法したりする。そして、そこに新たな本質をこめる。自らの指示することに強制力を持たせる。解決できないものを解決したわけであるから、その類型化の基準は当然恣意的になる。立法論の怖さはそこにある。

教壇に立つ人間だけが教師ではない。自らを世界の中心に置き、独断で主張し、他の意見を抑圧する人間を教師という。人は、教師になってははならないのだ。そして、それでも解決できない場合には、武力を使って略奪を繰り返す。

彼等は、略奪を経験して略奪の成果が歴史上の実証され、その虜になるのである。神話は、人間を絶対化することに貢献してきたのだ。会計学の授業で、ゴーイングコンサーン(継続企業)の原則なる言葉が出てくるが、何気に怖いことを語っているのだ。戦後、象徴としての天皇制を残存させたや国旗国歌法を制定させたことは、記号が、人々を指示する機能を有していることから問題を残した。指示や命令の効力は相当の刺戟剤である今の平和な日本があるのは、戦争に行って国を守ってくれた人がいるからだとする人がいるが、それは違う。

国家をフィクションした国際金融資本とその集まりである財閥が家を実体化させ人民を用いて略奪を繰り返し、利益を守らせるために戦争に行かせたから、平和が損なわれた。拷問等によって戦地に行かされた者もいるが、戦争に志願した者も不利益を被るのが嫌だから戦争に行った。マインドコントロールされた者も無知であるが故に戦地へ行った。その結果平和が損なわれたのだ。

生き残った人が、戦後の荒廃した状況から立ち上がり、二度と戦争を引き起こしてはならないと再軍備化政策に反対意見を唱えてきたから現在の平和があるのだ。現在の平和を戦場に行って守ってくれた人のおかげとする論理は、もう一度、戦場に行って利益を略奪してきて欲しい、自分たちの利益を守って欲しいと願う人たちが考案した論理である。彼らはまた、いかなる暴力行為をしようとも償いえないものは存在しないと考える。

寄付やボランティアをすれば償われると考え、自らが償えたと考えた後に今度は、寄付等の相手方に恩を売って、自らがかつて暴力をふるった相手のことを再び支配しようとするのである。また、戦死した人間も殺人等加害行為を行なっているのである。決して美化される存在ではないのである。青年会議所は「誓い」なるDVDを制作して靖国を賛美する。君(天皇のこと)のために死ににいくことを賛美する映画も制作された。靖国参拝は、戦争を加害行為を正当化する行為なのである。

ブルジョアやその子弟たちは、戦場に行ったことがないから、平和について考えたことがないのだ。仮説を立て推論ができないのだ。想像力が働かないのだ。儲けを承継することしか頭にないのだ。だから、戦争は繰り返される。そして、人間の力を省みず勇ましい言葉を吐く。そして、多くの人が今もなお、その強烈なリーダーシップや官邸政治や勇ましい言葉に憧れているのだ。

国際金融資本がフィクションした国家は、勝ち組に反対意見を唱える者たちを堰き止める防波堤の役割をしているのだ。財界をはじめとする国家や国家装置たる警察や軍隊に守ってもらえることに憧れるのだ。 国家装置や兵隊に守られるているから平和があるとすることは、人民は金持ちを守るのが当然である、人民は黙って財界のいうことをきけばよいのだとするブルジョアの論理である。これまでの歴史を認識し、歴史を絶対化せず、批判することで、現在解決されていない問題につき、恣意的でない、つまり合理的な理論を構成して解決を図ることが重要となる。