経済成長のためには、競争が不可欠である、人は他人と競い合うことにより成長するなどと言われることがよくある。果たしてそうであろうか。

競争などなくても、個人個人が理想を持って、それに向かって研鑽すれば、経済的にも文化的にも豊かになれるし、人として成長することも可能であると思う。仕事をはじめとする日々の生活を送る中で、人は、理想をどこか遠くへ置いてきてしまいがちである。理想と実践を近づけるようにしていくことで、人は進歩が可能であると思うがどうだろう。妬みやそねみ、憧れが成長のエネルギーとなるようでは何も良いものが生まれないと思うとされるがどうだろう。足を引っ張り合うだけのこともあるし、世の中全体の水準は向上しない。奪い合いが起こるだけである。競争するよう煽られて、行動するようでは、労働を疎外し合うようでは、唯心論に基づいて行動するようでは、支配しようとする国際金融資本たちを儲けさせるだけで彼らの思う壷である。

競争させられた方も競争相手に勝つことで満足してしまう。競争相手は絶対的な存在ではないので、相対的に相手を上回ったにすぎないのである。また、あるいは、競争させられた者は、支配者たちの期待に応えるだけで満足してしまう。労働の疎外であり、奴隷の道徳の洗脳である。むしろここに、競争社会の限界があると思う。

そして、競争がある限り、敗者は淘汰される。欲得のみを基準にアメと鞭によって人を動かすということは、明確な理想どころか思想がないことと同じである。8歳児の餓鬼と一緒である。「理想」の「理」の字に着目すれば、理想を持つということは、際限なく欲望を持つということではないことがわかる。科学的な問題提起及び推論により、自らの意思で理想を設定し、理想をもって行動することにより、弱肉強食の状況を回避し、他人に対する配慮も生まれる、競争などなくとも共に成長することが可能であると思われるがそんなに甘いものである。労働を疎外することなく労働の評価を支払わなければならない。