資本主義、さらに言えば市場原理主義に固執する者は、能力のあるなしにかかわらず、生まれた家庭環境にかかわらず、個々の努力にかかわらず、全ての者が余裕を持って生活が送れるよう、軍事力を持たずに福祉等を充実させることを頑なに拒む。

たとえ、その上で個人個人が自らの欲しい量、到達度を決めることができてもである。差別の土台は、中央銀行の所有義務、資本関係を土台にした資本増殖の義務である。

資本増殖させたことの後付の方便である。資本は、労働力を購入して.疎外労働をさせる方便を探さなければならない。

彼らは、差別するターゲットを見つけなければならないのである。貧しい人間がいなくなっては困るのである。差別を受ける人間の欠点、弱点を探しては面白がるのである。

経済関係上、常に自分が一番、人から褒められたがることになる。そして、誰かに追われていると規定し、ひたすら他人を追い落とそうとする。

自分たちの「仲間」以外、誰も、あなたのことなんかうらやんでいることなんか実体化されていないのに。宗教を用いて、自らを天上人と規定し、世界の中心に置き、自由を超えて恣に行動したいのだ。人民をコントロールしたいのだ。紙に基づいて、人が階級を作り、正義を創造したのである。宗教はそれを助ける。だから宗教を好んで利用する。経済関係を土台に恣意的に行動する過程には、支配する過程には経済戦争に勝つ必要がある。だから、自分以外の労働力たる人間に力を与えたくないのだ。よって、ブルジョア国家は暴力なのである。