法律は誰の利益になるものか。大部分の学校では、「私人間の利害関係を調整するもの」だとか「国民の権利救済のためのもの」であるとか教えられる。これをそのまま信じている人がいたら、はっきり言って「皮かぶり」である。
法律は、経済戦争を勝ち抜いた者に有利に作られる。例えば、民法などは略奪と所有を正当化する法律である。法律も文字も支配のための道具として発明されたのである。そして、形式的には、恰も被支配者が自由に選択できるような文章になっている。
しかし、あらゆる手段を用いて支配者自身の利益になるように誘導するのである。このことは、既存の法律は公平にできていないし(例ー受取配当益金不算入、寄付金税制、租税特別措置法他多数)、今年は大幅に遅れたが、毎年、3月末に公表される「改正税法」を見ても、決して全ての者に平等なものになっていないことからもわかると思う。
だからといって、不利益に取り扱われている者は、手をこまねいているわけにはいかない。法律を適用するに当たっては、先ず、当該法律の課税を立法原因、趣旨・目的は何かを理解し、さらに、その立法原因、趣旨・目的を多角的に分析していき、法の趣旨・目的及びその予定しているところを確立しなければならない(これを解釈という)と説明される。
しかし、趣旨目的は、実体のない観念であり、国際金融資本が労働を疎外することの後付けの方便である。解釈の土台は、経済関係である。
法の解釈の次は、問題となっている事実に法に「あてはめて」問題の解決をする。税法は、課税要件(条件とは違う)に該当しなければ、課税できない。つまり、法律が掲げるケースの全てに該当しない限り、言い換えれば、条件は、法の掲げるケースの一つにでも該当していれば、当該法律を適用できるが、要件というからには、一つでも該当しないものがあれば課税できないのである。
そこで、納税者は、当該取引には「訳」があるから、課税要件にはあてはまらないではないか、事情を酌んでくれないのかとアピールをする。しかし、納税者がいくら合理的理由を主張しても、法の予定するところから外れていれば、課税を受けるのである。そこで、条文の意味内容のとらえ方(解釈)が重要となる。一見、課税になじむように見える取引・事実であっても、法の解釈、法の予定するところ、言い換えれば、問題となっている取引等を行った「合理的理由」を法がどこまで許容しているかをどのように考えるかによって、結論が変わってくるのである。
税務行政が課税要件に該当するという判定を下すのに少しでも「躊躇」があれば、課税はできないのである。残念ながら、憲法学者等のいうように法を自己の目的に照らして解釈することはできない。つまり、前述のように法は被支配者有利にできていない、解釈権など与えていない。ではどうするか、税法の趣旨に合わせて取引を行うのか。いや違う。
法律の立法原因ー目的(許容範囲)と解釈するに当たっての自己の実践(目的を含む)の理由が、原因となる土台(前提事実、問題提起)があってそれに基づいていて、結果的に一致していることを立証するのである。
そういう意味で法律を「自分」のものにできるかが鍵となるのである。それには、先ず、ルールを熟知して、それをいかに崩していくか(例外として認めさせるか)が重要となる。そのため、法律に意味内容を与えるに当たっては、いかに仮説を立て(テストには基準の意味がある)、推論を行い、検証にしていくかが重要となる。なお、当ブログについて、解釈・適用の問題を論ずるに当たり、事実認定の問題と法解釈の問題を混同しているような印象を受けるかもしれないが、実際、両者を区別することは困難であるため、あえて、当ブログでは、両者を区別して論じていない。