愛する者を守ること、守られている者は果たして、本当に幸せなのだろうか。思うに、必ずしも、幸せであるとは思えないのである。なぜなら、守るということは、「力をつけさせないこと」を意味するからである。「力をつけさせない」も立派な暴力である。
従来から、女性は、「男性より劣る、だから男性に養われて、男性に尽くし、子供を産み育てるのが幸せである」と、ブルジョア国家や親から刷り込まれてきた(戦時中の結婚十則他)。だから、ブルジョア家庭の男女は、娘や息子の配偶者が仕事を持ち自立することを一般論としては認めつつ、相続の面から本音では極端に嫌う。
また、国家側にとって、女性に対し、同定度の能力の男性よりも、低賃金で働かせているのは、女性が一人で生活できなくなって、とっとと結婚して退職してくれれば、人件費が圧縮できるし、女性が次世代の兵隊を作ってくれて、女性に銃後を守らせれば、男性社員も命令に忠実になる。
子供が親の介護をすれば、福祉費を削減できる。あらゆる面で国家の利益となる。だから、差別を乗り越え経済的に成功した女性の中にも、こうした男中心の国家に賛同する人も多い。ブルジョアは女は弱い者であると定義し、属性のない女に属性を与え、「身を固める」という言葉の存在や男性は、幼いころか「女や子供は弱いから、弱い者を守りたいのは男の本能だ。妻子を守るために戦地へ行って来い。」「妻子を養って一人前」だとか、「そろそろ責任を持て」と唯心論を刷り込まれるのである。
ペニスを持った人間に責任という言葉を媒介に、自由意思とそれを伴った責任という属性を与え、見合いをさせ、自由に選択したこととし、自己責任として責任を負わせる。「男と女に子供を持つことが幸せだ。子供を持ちたいと思うのは本能だ。」と刷り込む。
子育てに自由はない。子供はやがてブルジョアの子となる。そうやって、ブルジョアは、見習いの兵隊の給料を各親に払わせるのだ。また、既存の経済関係生産関係社会関係から、男性の側にも、一家の主として支配者になりたいから、妻や子供を作るという人もいる。ところが、女性や子供が一人で生きていく力をつけると、たちまち彼らをコントロールできなくなってしまう。自分に服従させたいから、力をつけさせない、力がないのだから、監視する、導いてやるといったモチベーションが起こるのである。子供に部屋を持たせず、親の目の行き届いたところで勉強させる。これなどは、異常である。だから、女性や子供は「閉じ込められる」のである。
家族関係が希薄だからではない、家庭の利益のため、関係が濃密だからさまざまな問題が起こるのである。「誰のおかげで飯が食えると思っているのか」「口答えをするな、従わぬ奴は出て行け」と言われた人も多いであろう。確かに、そういう男性は、女性や子供のことを愛してはいる。
しかし、奴隷の道徳を洗脳され、それ以上に自分のことが大好きである。女性や子供は自分の体の一部である。イコール自分だから自分に意に反することをしたり、思うように物事を達成してくれないと腹が立つのである。殴る,蹴るといったいった有形力を伴うことばかりが暴力ではないのである。女性や子供は「男の所有物」ではない、「国家の所有物」ではない、「社会の所有物」(戦時中の、いわゆる国家社会主義者」の見解)ではない。一人の人間である。一見、強烈なリーダーシップを持った男性は、女性にとって格好よく写るかもしれない。しかし、無批判に服従するのでは、自分がどうしたいのか、自分の意見を持っていないのと同じである。女性は無能じゃない。男の後を3歩下がって歩く必要なんかない。今後は、夫婦別姓の実現等も含め、本当の意味で、平等な世の中が来て欲しい。