人間には、果たして本能というものがあるのだろうか。本能なんてものは存在しない。人間の行動には、必ず、経済を土台とした理由があると考えるからである。

人間の行動のほとんどの場合、原因と結果の因果関係を論理的に説明できるのではないか。「人間が生まれながらに備えているもの」として、いくつか例を挙げて説明し、「本能」という言葉に置き換えてしまえば、それを持っていない人間を「欠陥ある人間」として攻撃することが容易となる。

「本能」は、金融ブルジョアが自分たちにとって好ましくない人間を攻撃する手段として、御用学者あたりを使って考え出した概念だと思う。

たとえば、避妊や堕胎をした人間について、大人自身の勝手な意思に基づく行為として非難する一方、子供が欲しい、家族が欲しいというのは人間の本能であるとするのであるは、ブルジョアが述べる都合のよい論理である。人間にはこうした本能などないのだ。

「生まれ変わって、自分がなしえなかったことに対してリベンジしたい、延命して利益を維持拡大したい。だから、子孫を作るのだ。」というのも、「生まれ変わって愛する人と人生を更に続けたい」というのも(これは洗脳である。こういう人が多数であれば戦争は起こらないというものではない。これもエゴだからである。)、生産関係による自らの「意思」に基づく行為である。

「本能」とは別に、「無意識に」という言葉がある。例えば、各レジの前に行列ができていて、隣のレジの先頭の人が精算を済ますや否や、列の後ろの方に並んでいた客が、さっと隣のレジの前に横滑りすることがある。割り込んだ人間をかばう人は、「無意識だから悪気はない」というが、これなんかは、資本関係を土台に他人の利得の略奪を基にした所有関係による「他人を押しのけてでも、我先に」という「意思」に基づく行動で、「自分さえよければ」の典型であろう。

割込みをする人間はブルジョアジーなのである。現状の問題点をそらさせる、あるいは、自身の判定に確信が持てない場合に都合の悪い人間を攻撃するのに使用する、この手の言葉には、他に「運命」「自然」などがある。