誰もあなたの私生活には興味がない。

お前は、芸能人じゃねえんだ~!誰もお前の私生活なんか興味ないんじゃ~!

確かに、その通りだと思います。

尤も、俺は芸能人の私生活なんか興味ねえけどな。

芸能人の誰々が水着姿に!

こっちは、忙しいのに、こんなんデカイ通知音で、スマホに通知してくんなや。

そんなん、見たかねえよ。

そいつの自慢にすぎない記事、使えません。

自分が社会の中心にいないと気が済まないかまってちゃん。

こっちは、暇じゃねえんだ。

まぢでうぜえ。

読まれないブログの代表として挙げられるのが「日記」である。

ネットの普及で、テレビが洗脳マシーンの役割を演じてきた事実が暴露されてきている。

芸能人も、メディアを通じた金融資本の傀儡(あやつり人形)で、言われるままに発言して、洗脳に一役買っているだけでは、いずれ誰にも相手にされなくなるだろう。

自分の言葉で、自分の置かれた関係を、自分の意見を交えて述べていかなければ、誰にも相手にされなくなってくると思う。

それでは、一概に、日記はダメなのか。

タダの日記じゃダメだ。基礎が大切。それに+αが必要。

個人的には、基本的に、日記はダメだが、全てがダメというわけではないと思う。

かつて、三島由紀夫は、文章の入れ替えや編集がなければ、次のように言った。

大体、私は女嫌いというよりも、古い頭で、「女と子供はとるに足らぬ」と思っているにすぎない。

女は劣等であり、私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。

女性は、抽象精神とは無縁の途である。音楽と建築は女の手によってろくなものはできず、透明な抽象構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまう。

構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義、みな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。

お前、本当に東大法学部、出たのかよと思いたくなる頭の悪い発言の多い人だが、上記の発言は、概ね、正鵠(まと)を得ていると思う。

ブログ上で、小説を書くのであれば、抽象的な文章であってもいい。

但し、ブログを実用ツールととらえるので、あれば、抽象的な文章ではなく、具体的に書くこと、現実(リアル)に書くことが、読者から求められると思う。

但し、内容が伴っていなければならない。

食べ歩きのブログやLive鑑賞日記でも、

「とんこつラーメン食べた。美味しかった」では、日記以外の何物でもない。

お前、NHKかよ、と言いたくなる。

忘れずに書いておきたけりゃ、Evernoteにでも書けばいい。

メイヤーラヴィンに書き換えられる前のアンネの日記と同じです。

メイヤーラヴィンに書き換えられたアンネの日記は、俺にとっては何の役にも立ちませんが、

ロスチャイルドやロックフェラーにとっては、人民を洗脳できたわけで、役に立ったのです。

しかし、これに、店名、場所(アクセス)、価格、食材、混雑する時間帯、営業時間という情報が書いてあれば、精神論や自己啓発のブログなんかよりはずっと役に立つ。

精神論や自己啓発は、実務の場でも、プライベートでも、まるで役に立たない。

「マイナビウーマン」や「アメーバニュース」の、例えば、「残念な人の特徴」のような記事は、貶すだけの、貶すにしても上っ面だけで、何ら洞察されていないクズ記事以外の何物でもない。

一方、前述の食べ歩きブログは、俺はメシを食いながら商談をするのが嫌いなので、社会一般が食事の時間帯とする時間を避けて商談をするのだが、メシを食いながら商談をする人や、接待の店が決まらない人、出張先で、食事をする場所がわからない人にとっては、それなりに役に立つ。

その店の経済関係上売らざるを得ない商品の宣伝は、その店のHPに書いてある。

雇用関係のある社員でもない、店からお金をもらっていない一人の客が書くから、リアルな情報、意見が得られるので、

それなりに有益だと思う。

Live鑑賞日記も、例えば、関係のあるアーティストや聴いておきたいアルバムを、ライブの詳細なパフォーマンスと共に、併記しておけば、これから何を聴いたらよいのかわからないという人に役立つかもしれない。

詳細、具体的な日記を書いたとしても、日記を書くのは、人間の肉体である。

様々な経験をし、且つ、経験だけでなく、常に調べて情報をストックして、面白いと評価されていなければならない。

そうでないと凡百のつまらない記事になる。

例えば、男に閉じ込められてきて、社会に出てから間もない女、子供は、経験も学習も少ない。

「いちごのクレープ食べた。美味しかった。」

こんなん、誰でも食ったことあるよ。即スルーである。

人間の肉体は、死に向かって進行している。

経験できること、学習できることは有限である。

それ故に、常に、これまでやってこなかったこと、新しいことをやる。

絶えず新しいことを実践する人は、昭和の時代から無数に存在していた。昨今のことではない。

俺も、例えば、料理店に入って、養殖マグロと「キジハタ」の刺身があったら、「キジハタ」を選んできた。

開店して一番乗りの客でない限り、又、自分以外の誰かのキャリアを土台にして新しいことを付け加えていくので、

誰にも体験したことのない、と言ったら言い過ぎだが、

大部分の人が経験したことのないことを経験したのであれば、それは、独立した記事を建てて、自分の言葉で、経緯と自分の意見を含めて本文で書くことだと思う。

そのような記事は、自己啓発の文章を本文に持ってきて、脚注、追記、編集後記のように、記事の片隅に追いやるような事柄ではないと思う。