幸せは錯覚である

チビ、デブ、ハゲ、ブス、顔のでかい小さい、巨乳、貧乳、セックスによる快楽、恋愛と同じく、労働の疎外の方便を、メディアの洗脳を媒介として実在するかのように陥らせられた錯覚である。

餓鬼は皆働くことができず閉じ込められる。

俺は小学三年生の段階で結婚もしないし、餓鬼も作らないと決めた。

俺は両親に離婚を勧めた。

何故、家庭内でバイオレンスが繰り広げられるのか。

俺はあらゆる手段を尽くして学び、研究した。
金は主人を持たない。金が御主人様で、資本関係、経済関係、生産関係は、金によって規定されている

プチブルも役員も現場労働者もユダヤ金融資本の奴隷。

女は守られてきたから、労働力商品に価値をつけて売るということが下手である。

男に抱かれることに必死になる。収入が少ないから専業主婦やパートになる。

ハウス内外での疎外労働もあるし、家賃という後付の方便が付された利潤の分配もある。

シェアハウスも家族も経済実体であるという面では、共通する。

血縁関係や性的関係を含むシェアハウスとの見解もあるがそれは正鵠を得ていない。

人間という経済実体は、血のつながりや本能や性欲や遺伝子や体裁や通念や経済モデルや理念や意識やイメージや歴史で労働及び労働力の再生産をするのではない。

空気や価値観といった唯心論によって経済が動くのではない。

遺伝子や欲や本能は肉体には備わっていないのだ。

家庭は、性的関係を媒体、手段とするが、セックスの土台はフィクションされた架空の資本関係を源泉とした労働及び労働の再生産、介護が義務づけられたことである。

家庭、セックスは、血縁、恋愛といった観念上の関係ではなく、法律を媒介に実体化させられた経済関係である。

現実には見合い結婚の割合は減っていない。

生産や労働は、偶然の巡り合わせや直感や空気や慣習や感情や知識で動いているのではない。

時代の経過によって結婚、出産のするしないが変わったのではない。資本の貸し出し⇒疎外労働の強化という経済関係によって変わっていくのである。

未婚小梨のサラリーマンは、

虚しいから副業をするのではない。そこには、対等な人間関係は形成されない。

労働を疎外され、労働力商品を売るだけでは生活できないからである。

俺は餓鬼が嫌いだ。

守られているから、計算して泣く、口で説明して知ってもらうということをしない。怒る。

女も守られているから餓鬼なのだ。

俺は女が嫌いだ。

結婚すれば、自分が子供の頃にされたことを他人にしなければならないからだ。

だから、結婚もしないし、餓鬼も作らないという気持ちは揺るぎないものとなった。

結婚は、血縁関係、性的関係を含むルームシェアと考えているphaは、

童貞であろう。

友情は経済関係を土台に出来上がる。

人間関係を土台に他人の餓鬼の面倒を見たり、見させられたりするのではない。

企業にしろ、家庭にしろ、ルームシェアにしろ、

分業にすることにより搾取ができるからである。

友情は美しいものではない。人間関係によって労働力の再生産が行われたり、相互扶助という経済関係が生まれると思ってしまっている。

労働によって付加した価値が国際金融資本によって、

他の経済実体を通じ、疎外されるから

閉じ込められるから

家庭やシェアハウスにおいても

他の労働者や友人と思っている経済実体と群れていても

寂しいという観念が生まれる。

独りになり、

経済関係を土台とする人間関係から解放されることで寂しさから解放され、

癒しの観念が形成されるのだ。

人間関係は拠り所にしない。実体のあるものしか拠り所にしない。

だから、俺は友人を作らなかったし、

愛想よく振舞って陰口を叩いてまで付き合うことはないから

友人関係をフィクションされかかってきた奴は、

次々と切ってきた。

結婚は、血縁関係、性的関係を含むルームシェアと考えている前述の論者は、

いずれ、国際金融資本によって、

国際金融資本から金を借りていたり、

搾取させられたり産む機械として貸し出されて

おこぼれを受け取っている

他の経済実体との経済関係を通じて

結婚させられてしまうであろう。

俺の注いだまんこが食えないのか、

俺のまんこが食えないのかを免れることはできないであろう。

彼は、ユダヤ金融資本ロックフェアラーやロスチャイルドが

出資設立したメディアが流布した洗脳による

錯覚から完全に脱却していないのである。

一人で生きることはできる。

しかし、これは困難なこと。

長生きすることは捨てる

金持ちになることを捨てることである。

商品に価値は備わっていない

自らの肉体を手段にした労働力商品に高い価値を付けて売るスキル

簡単には身につかないが身につけたら

怠けながらことが高い価値を付して売ることできる。

価値の備わっていない商品である紙切れの存在よって翻弄されている。

商品には価値が備わっていない

商品の価値は労働の疎外を土台に付与される。

利潤は労働の疎外を土台に形成される。

商品の交換の段階で利潤が生まれるのではない。

商品は生産又は支払の手段にすぎない

労働を土台に方便たる価値が成立する。

商品の交付を受けなければ、

借りなければならない。

商品にコストをかけない、コストパフォーマンス云々は、

労働を疎外していることである。

生活を奪う権利を実体化していないから、

労働に価値を付して商品を買わなければならない。

労働力商品を手段として売り

労働をして、労働に付した価値を疎外して貸し付けた経済実体に利潤を握らせざるを得ない。

労働力を再生産せざるを得ない。

生活手段としての労働力を提供できなければ、労働力商品、現金を含む商品を買って

労働させ、現金商品を借りることになる。

商品の消費は必要である。

趣味や学習も労働であり、女、疎外された性労働を土台とした子供や保険や車、金融商品、オフィス、家庭を始めとする労働に使わないものを買わないということである。

そうすることで、金という御主人様を捨てることができるのだ。

人民を揃って貧しくさせることの方便

共産主義は、人口を減らして、

資本の貸与⇒疎外労働を土台とし利潤の反復回数を増やし、

労働を強化することの方便

資本主義は、疎外労働により利潤を与えさせ、

戦争、製薬、エネルギー、種子に再投融資させ、

疎外労働させて利潤を得ることの方便はある。

国は実体のない観念

実体はユダヤ金融資本

ユダヤ金融資本を更にに経済力を付けさせる義務はない。

労働者は、金を貸しているから。

これ以上労働する義務はないし、労働力再生産する義務もない。

俺は生きていて申し訳ないなんてビタ一文思っていない。

しかし、長生きもしない。

人類は存続しなくてもよい。

労働をしている奴は、奴隷の道徳に洗脳されているから。

労働は嫌いだが、1晩、2晩遊べるだけのエネルギー、バイタリティを身につけてきた。

どの経済実体に労働力を提供するか選ぶことを余儀なくされているだけ。

ユダヤ金融資本は紙切れを無制限にフィクションする権利を実体化させているから

労働しなくても労働力の再生産をしなくても

経済、生活、社会は回る。

国債の返済を負担しなくても経済、生活、社会は回る。

労働力の再生産をしなければ、

労働して自給自足する必要もない。

いつ死ぬか自分で決められる。

資本主義、共産主義を媒介にした洗脳からも解放される。

俺は、非正規になってから

派遣先からは人間のクズ扱いをされている。

誰も俺のことを知っている人はいない。

俺の注いだまんこを食えないのか

俺のまんこを食えないのかから

解放された。

だから、俺はクズ扱いする奴がいても

腹が立たない。

産まれてくる子供は生まれながらに奴隷

ユダヤ金融資本により無制限に紙切れを

フィクションする権利は実体化されてしまった以上、

奴隷解放することなんて出来やしない。

親のエゴで子を産んで欲しく無い。

産むかどうか迷っている人には産まないことを勧める。