IBM控訴審判決(東京高判平成27年3月25日)について、その原審について2014年5月10日のブログで書いたことと重複するが、再度述べさせて頂きたい。

控訴審においても、国際金融資本は、国際金融資本の代理人である司法、課税庁の労働者に、目的によって経済実体は取引をするとデッチ上げさせ、経済合理性なる、理論をフィクションし、理論という観念を土台に取引を想定し、当不当という宗教道徳と交渉して法の解釈、適用をさせている。ロックフェラーとの資本関係から、ホールディングスと日本IBMは、ホールディングスに疎外労働を土台にした利潤をフィクションし、日本IBM側に損失をフィクションすることを余儀なくされた。

利潤は、国債負担前の利潤から配当されている。そこに自由意思はない。国際金融資本がフィクションした借金である国債負担を免れて、労働者に転嫁させているという、専ら経済上の事実関係、利潤に付された価値の転嫁の過程を提示することで国際金融資本の方便を揺るがし、132条の解釈適用によって実体化させることができるのだが、それをしないのだ。

山下清が長岡で観た花火を東京に戻って現実に観た事実をそのまま紙に書き込んだという過程を、国際金融資本の代理人は、観念を交えてフィクションしたのだ。

課税庁もIBMも国際金融資本の使用人として手を取り合っていて、課税庁は八百長で負けたのだ。代理人によって行われた後付の方便による洗脳を受けて、牧羊犬に追われた羊の如く、学者先生は、やれ、チェックザボックスだ、Hybrid Entityだと、一般的否認規定の創設だと丁丁発止の議論を展開するのである。

国際金融資本は、丁丁発止の議論を労働の疎外と国債を労働者に負担させることのー労働の疎外を土台とした利潤から利子、配当、地代、法人税は支払われているー後付の方便として使用するのだ。