監査役は、資本、生産手段を持たず、その経済、生活に基づいて法人にプールされた資本を処分することができず、労働することができず、資本の取得を土台とした権利がないから、意思も存在しない。意思を実体化することはできない。

租税も利息コストであり、資本の処分である。労働者は、労働の提供に基づいて金を受取り、そこに価値が付与されるのであって、成果に基づいて金が支給されるのではない。権利は似非共産主義者のいうような生まれながらに備わっているものでもなければ、天から降ってくるものではない。

法は資本、経済に先立っては存在せず、ブルジョアの所産である。司法の基礎は、現実の資本、経済、生産関係上の事実関係であって、法の存在ではないし、資本、経済の総和である社会、法によって作られた目的、観念でもない。

司法は、目的と交渉して解釈することで労働者の経済、生活を疎外してきたのである。現実の資本、経済全関係に基づいて言えば、紙幣の交付は労働者の労働であり、労働力商品、商品と金、金と紙の交換、預入れを通じて行なわれるから、労働者には、疎外労働をして金融資本を富ませる義務がない、生活できているのに生活上の支出に付与された価値を超えて働く義務がないこと、労働力の再生産の義務がないこと、国際金融資本には、預金を他の経済実体に投融資して資本増殖する権利はない、労働の存在、労働に基づいて支給された金の価値を疎外して搾取する権利はないということになる。

王侯貴族との資本関係に基づいた中央銀行の設立、紙幣発行権の実体化後、取締役、監査役は、資本関係、生産関係に基づいて、疎外労働を行って資本増殖に協力することを余儀なくされる労働者、使用人である。

租税も利息コストである。監査役に独立した権限は付与されていない。労働する過程において過誤、瑕疵があっても、労働者は損害賠償を負う義務は存在しないし、資本は過誤、瑕疵に基づいて解雇することはできない。所有と経営は分離していない。

経営者なる階級は存在しない。役員も使用人も英語ではEmployeeで、Employerは、ブルジョア経済学でいうところの株主、現実の資本、経済全関係、いわゆる唯物論に基づいて言うと法人の架空資本を付与された経済実体のことである。

阿呆なのは、監査役ではなく、事実関係の全てを調べずに、国際金融資本による、日銀の出資設立を土台に、日本国が設立され、国際金融資本の御用学者が、所有と経営の分離という、現実とはかけ離れて教えてきた嘘を何も疑問を持たずにきた司法、司法について、事実関係の全てを分析せず、当然の属性を付与してきたブルジョア学者であろう。 税務上の過誤を原因に、顧問税理士の契約は打ち切ることはできても、法人の監査役を解雇することはできないであろう。