労働基準法5条にいう「精神又は身体の自由を不当に拘束する手段」について、行政解釈(昭和23.3.2基発381号は、「不当にする手段とは、客観的に見て通常人がその自由を奪う程度で足りるが、本条の場合この手段を用いることによって使用者が労働者の意思に反して、労働することを強制しうる程度であることが必要」とし、

「長期労働契約、労働契約不履行に関する賠償額予定契約、前借金契約、強制貯金のごときものがあり、労働契約に基づく場合でも、労務の提供を要求するに当たり、精神又は身体の自由を不当に拘束する手段を用いて労働を強制した場合には本条違反となる」としている。

行政解釈にいう、この不当は「社会通念上是認しがたい程度の手段の意」としている。全ての人には通常人の属性は備わっていない。客観は実体のない観念である。自由を拘束する土台となる経済関係があるということである。自由は実体のない観念であるから、自由を拘束手段とは、資本関係、生産関係、経済関係の存在があれば足りる。

社会通念は、経済を土台に形成されるから、金融資本の利益に基づいて、法の解釈、法の包摂が規定されるというころである。

労働者がミシン見習工を熱望していたにもかかわらず、家事労働雑役に従事せしめ、解雇されることを恐れて家事労働に従事したケースについて、「同女がどうしてもやりたくなかったならば、何時でも」として5条違反ではないとされた事例がある(横浜地判昭和25年12月9日)。

紙幣発行権を有しないない経済実体は、金融資本、資本関係、生産関係から、労働せざるを得なくさせられ、ミシン見習工であろうと、家事労働雑役であろうと、労働することに意思はない。見習工の労働も疎外、搾取はされるが、疎外、搾取が行われていた家事労働を継続する義務はない。

生産関係上、生存義務から、疎外され、資本を儲けさせるだけの労働を継続する義務はない。上記判決は、資本、生産手段を所有せず、労働力商品を売ることしかできないという現実から乖離した判決である。

労働基準法116条は、労働基本法の適用について、「この法律は、同居の親族のみを使用する事業及び家事使用人については適用しない」と規定する。

妻や子も、居住が別で生計を一にしていなければ、共通の現金留保義務が課せられていないとみなされ、労働基準法の適用があると解され、夫の許可を得ず、引継が終わっていなくとも、経済、生活に応じて退職することができるものと解される。

人民には、自然人は存在せず、全て経済実体である。法人は会社組織以外の実体も含む。親と生計を別にする社会人であれば、生産手段にして自らに貸与し、労働を疎外して、現実に行わざるを得ない家事労働を、自身が請け負っているのであり、夫の家事をする妻、家政婦、児童、私邸の守衛、運転手は、事業といて請け負う者に雇われていることになるから、資本関係上、生産関係上資本に義務付けられている介護をすることを余儀なくさせられているのであるから、家事使用人には当たらず、労働基準法の適用があり、男に閉じ込められる生活、疎外された労働を辞めることができるのである。