衆議院選挙の際には、最高裁判官の国民審査が行われる。行政司法は、アメリカの金融資本家との間に生産関係が存在し、資本経済の維持装置である。

それでは、人民に司法を担当させればよいのかというと、人民は、金融資本家に所有されている資本家との生産関係が存在するし、裁判という労働を強制することはできない。確かに、全世界における経済関係が変わらなければ、経済の上層にある行政、司法を変えても、改革のプロセスと結果は絵に書いた餅に終わるであろう。武富士裁判、ガーンジー諸島最高裁判決のように金融資本家の経済関係を土台とする最高裁判決も見られるところである。

裁判官に白紙委任することは金融資本家の経済関係を土台とした資本経済を促進するだけである。人民は、労働という義務を提供をしながら、搾取されているから、資本家は、搾取した利得を支払う義務を履行せざるを得ないわけであるから、人民一人一人が、生産関係下に置かれた裁判官を罷免して、金融資本家を土台とする資本経済の促進を抑止する必要があるであろう。

しかし、投票は数えられなく、裁判官の就任、罷免は予め、国際金融資本によって決められているのである。

既に、人民は、詰んでいるのである。