現在では、むきだしの市場経済を推し進める米国の資本家、英国の資本家を賛美する論者が多いが、かつては、ドイツにおける経済観察法だけでなく、ロスコーパウンドをはじめ、アメリカ、イギリスの法律家も、取引につき、当事者の意思ではなく、取引当事者の関係、権利義務関係に基づいて観察することを提唱していた(Roscoe pound,Interpretations of legal history)。

しかし、権利義務の土台である経済関係を全体化する方法論を採ることなく、問題を二項対立させ、第二次世界大戦後から現在に至るまで、日米英の税法学に係る裁判例を読むと意思すなわち目的論に立脚した司法実務が行われてきているように思われるし、法律学の教科書及び実務書は、取引の目的、支出の目的、契約の目的、法の目的といった目的論が有力になったと言われる。

目的は実体のない方便である。法は、中央銀行の所有関係、国庫との資本関係に基づいて創設される。よって、現実には資本の側の資本関係、生産関係、経済関係に基づいて判示が行われ、資本を持たない経済実体の経済関係上の利益は疎外される。法の目的を交渉することとにより、資本を持たない経済実体は資本に経済上、実体上敗北する。裁判例、学説は、進歩するどころか、後退してしまっているのだ。現在でも当事者間の経済関係を重視する方法論を採る者もいるのであろうが、資本家がこうした目的論を台頭させてきたことは、戦争の継続による内部留保による蓄積と関係しているように思われるのである。法解釈の土台は、実体のない法律の目的ではない。経済取引の土台となった経済関係の現実である。