ブルジョアの子弟の間では、セックスに関しては非常に寛容である。

企業のオーナーは、下ネタ大好き男で、超絶絶倫肉食獣である。

男には、セックスしたいという本能など存在しないから、資本家としては、何とかして子弟にセックスに興味を持たせたい。

女にモテないことが格好悪いという属性を与え、テクニックを教え込み他の男と競争させる。風俗に通うことを奨励する。彼女を温かく迎え入れる。

しかし、資本家が、自らの子弟が生殖をする年齢になったら、子弟と彼女と別れさせる。

一方、女は、資本家の子女でなければ、就職先の資本家から一人で生活していけるだけの給与が与えられず、風俗でバイトせざるをえなくなる。

更に賃金が絞られ、生活が苦しくなると、売春してキモイ男に抱かれなくてはならなくなる。

女には男に抱かれたいという本能はない。全ての男はキモイのである。

メイクや臭いや清潔を資本家に命じられ注意を払うようになる。そして、資本家の子弟とソープのお姉ちゃんが引き合わせられる。

資本家の子女や売春をしていない女性は、こうした女性をヤリマン呼ばわりして蔑むようになる。

女性には子供を産みたいという本能はない。男に触られるだけでゾッとする。

ましてや、皮に覆われ、刺激臭のする男の恥垢と尿と他の女性の粘膜が付いたものが自分の中に入ってくるのである。気持ち悪いったらありゃしない。

しかし、資本家の命令により、階級を問わず全ての女性は、労働力を作るように命じられる。

女は、経済に、生産関係によって造られる。規定されるのだ。

資本家は美の基準を作る。美の基準のモデルは何か。大物女優かファッションモデルか、アイドル歌手か。どれも違う。売春婦である。

広告代理店の命令で、芸能人は、売春婦の真似をする。売春婦に則って女性は、メイクや臭いや清潔な性器を創造せざるをえなくてはならなくなる。

自由意思ではないが、清純お嬢様も自らが蔑んでいるビャッチを模倣しているのだ。

そして、彼女と別れさせられた資本家の子弟と引き合わせられる。そこに愛などなくても、当事者はキモがっていても、資本家はそこに愛という属性を与え性交をさせるのだ。

経済がセックスを規定すること、若い男女の所有する唯心論に訴えれば、命令に従うことを資本家は知っているのだ。

マルクス主義、その流れを汲む論者については、資本家は、神様、自然、偶然、属性を信仰を捨てきれないながらも、経済上の敵対者として研究したつもりでいるか、大学時代、労働者の時代に傾倒していて、その後経済関係に屈して転向したかにしろ、全く知らないというわけではない。

人間は、組し易しと見下している相手には、自然、運命、神様、偶然を持ち出して説得するのである。議論の際に、神様、自然、運命、偶然を持ち出されたら、相手から教養のない人間であると見下されているのである。