人と人との出会いは偶然ではない。経済関係社会関係から命令、強制され、又は既存の経済関係社会関係について問題提起をしてものが同じである人間がある一定の場所、一定の時間に出会うのである。
政略結婚では、当事者双方を知る者が、同一場所において行う方便である経済行為を各々に与え、出会いを仕組む。命じそこでの実践を通じて、生産集団として行動をすることが要求され、個々人の思考に影響を及ぼし、友人となり、実践を通じて更に恋愛関係となる。洗脳が媒介となる。恋愛関係という上層には、生産関係はない。生産を永続させる必要がないのである。恋愛は刹那的なのである。
妄想ではなく既存の事実関係の中で相手の考えていることを推し量る。相手の考えを尊重する。離れたくないという形で思考に作用するにしても相手に何も期待しない。だから、相手を閉じ込めることをしない。相手のことを考えれば別れることもできる。他人とセックスするのを見ても嫌いにはならない。別れるのは必然である。恋愛は何も生産しない。人を好きになることは義務ではないのだ。交際相手をとっかえひっかえしている者は相手のことを推し量れるからモテるのである。とっかえひっかえする人間に嫉妬する人間は推量することができないからモテないのである。
しかし、結婚には、生産関係がある。人は、経済関係上社会関係上、ブルジョアによって、一人で生活するだけの資本を与えられない。ブルジョアは、結婚して性行を行わせなければ兵隊をはじめとした労働力を確保できない。結婚と出産が義務づけられるのだ。
社会関係においては、入籍しない限りは異性や子供を自分の物であると第三者に対抗できず、独占できないのである。自由意思で入籍しているわけではないのだ。他人は、異性や子供を略奪できるのである。権利の取得すなわち権力を掌握し、家族や競争相手を動かすことができるのだ。相手を動かして第三者の資産を略奪し独占することに成功すると推量しうるから安らぐのだ。つまり、人は、確定していない将来のことを推量して、略奪を期待してそれを独占しようと考えたとき、すなわち相手のことよりも自分のことを考えたとき、相手を資産と考えたとき、ブルジョアから強制されたものではあるが、労働力の再生産と引き換えにおこぼれをもらうという略奪戦争を共に行ってくれるという思考に至ったとき、結婚しようと考えるのだ。
ここまでは、共働き子供なしの法律上の婚姻関係も同じである。しかし、人は、相手を守りたいものだとというのは方便である。守るというこたは閉じ込めるということ。閉じ込められた人間のことを推量できないからこのような発言ができるのである。閉じ込められる怖さを知らないからそういう異性を格好がよいと考える。子供の将来のために籍を入れようというのも方便である。子供がブルジョアが作った社会関係経済関係から離脱することをブルジョアが許さないから、ブルジョアに背くことは自身の利益にならない。だから、自身も子供にもブルジョア経済社会からの離脱を許さない。事実婚又は法律上未婚で子育てをすることをブルジョアが認めないから自身も選ばないのである。事実婚や未婚では生活できないようにしているブルジョア経済社会を庇護しているのである。だから、人は、そういう人間がセックスを求めてくるとキモイという形で思考に作用するのだ。
社会が定義した美の基準、性の快楽の基準を植え付けられて(セックスに快楽という属性はない。現実には性器はとてつもない刺激臭がするし、病気にもなりうる。)、セックスに興味を持って結婚することに成功した人がいたとすれば、ここまでは、恋愛と同じプロセスである。しかし、子供を作るのは、本能ではない。結婚相手が社会に影響を受けた自分の美の基準に合致していれば、本人さらにはその子供は性行関係にはありつけるから、自身も最低限労働力を確保できるし、略奪と独占を永続させることができると考えるのだ。ブルジョア社会の略奪戦争に参加できるのである。孫の顔が見たい、孫を抱かせろは方便である。世間体も方便である。老後寂しくないのかも方便である。
科学的にみて結婚した二人が事故以外で同時に死ぬなどまずありえない。は一人では生きられないも方便でありプロバガンダである。分業制は、資本家にとって搾取が容易なのだ。一人で暮らしている人など現実にはいくらでもいるし、他人に助けられていても入籍する義務などない。他人に財産を略奪されないことを確定させたいのだ。全ては資本である。他人に財産を略奪されないことを確定させたいのだ。全ては資本である。どこの親も自分の子供を結婚させようと躍起になるのだ。小作りは内部留保を行うことなのだ。親を含むブルジョアの決めた相手以外に子供に好きな人がいようが、子供が親を含めたブルジョアの決めた相手とのセックスを嫌がろうともお構いなしである。社交辞令や八方美人であることを要求し、結婚する気がないと言わせて一本取る。経済的に一人で生きていけなくなれば、キモくてもセックスできることを知っているのである。見合いを気楽に断れたと話している者も、その者及びその家族が全く経済的な不利益を受けていないというのは嘘である。今も昔も結婚は既成事実であって、気軽に断れる見合いなどないのだ。
婚約成立となれば、専業主婦として閉じ込められ、男が生まれるまでセックスさせられるのも既定路線である。仲介人は、微々たる報酬がもらえるからではない。ブルジョアに命令されていて失敗すると経済的に不利益を被るから婚姻成立に躍起になるのだ。恋愛結婚を自称している者も、家族、職場をはじめとする経済利益社会利益に基づいて、結婚している。
上記のような構造をそのまま教えてしまうと、誰も結婚しなくなるから、ブルジョアジーは、女性や子供に癒しや安らぎや弱いものといった属性を与え、男に女を守りたいと思うものだという属性を与えた(現実にはこれらの属性は備わっていない。男が出産と同量の出血をすれば死に至るであろう)。
恋愛至上主義を宣伝し、恋愛が結婚、生殖の原因となるように人を駆り立てるのだ。女に服従を強いて癒しを与えさせるのだ。気が利く子が好きだ、癒し系が好きだといっている男は癒しを与えるのにどれだけ労力を要するかが推量できないのだ。
こうしたブルジョアの作ったプロバガンダにより、結婚や出産によって一時的な安らぎを得たと錯覚して(現実には次の瞬間からまた戦争が始まるのだ。一時的という社会的な制約を受けるのだ。)結婚するも、現実に生産関係がブルジョアより要請されると、家庭内において閉じ込めや搾取、罵倒のし合いが展開される。しかし、ブルジョアの内部留保要請により、そこから自由意思で離脱することは許されない。子はかすがい、家族の絆という属性を与えられて、飴を与えられ、宗教を媒介に、人の思考に影響を与え、乗り越えることができたかのように錯覚させるのだ。結婚してしまった人は、海を渡ればそこに桃源郷があるとブルジョアに騙されて、満州やブラジルに渡っていった人々と同じである。