恋愛は、目的を持って行うもので自ら探し求めて行うものではない。
ある日突然偶発的に自然に発生したものではない。神様の仕業でもない。
恋愛と生産関係である結婚の違いを知らないという事実を奇貨としたブルジョアからの強制又はプロバガンダを通じてにしろ、仕事などの既存の経済関係、学校、家庭等の既存の社会関係に不満を持っているにしろ、社会によって作られた美の基準(上層部分)に合致したからにしろ、自者としての行為ではない。
恋とは、これら既存の関係から、自分が置かれた立場から、コミュニティ内の人間の(出会いは偶然ではない。目的が同じであるからでもない。経済関係社会関係により同じ社会関係に存在させられているからである。)、土台又は上層部分の一部を見て、属性など備わっていないその者に属性を与えるか、その者の全体を予想(予想と目的は違う)しえたという形で、思考に作用を及ぼすという過程であって、知らず知らずのうちに無意識に行っているのではない。逆の見方をすれば、相手について全てを知らないから好きになるのである。
よって、恋愛は、上層建築を構成しうるから、土台(生産関係)である結婚とは別物である。独身者は、結婚が生産関係であることを知っていて、労働者だけでなく資本家にもなりたくないから、略奪戦争をしたくないから結婚しないのである。
損得が理由ではないのである。結婚願望が強い女、専業主婦願望が強い女が嫌われるのは、養わなければならないという責任感からではない。
現実に大部分の男は、男の給料だけで生活していけないのだが、所得の高い低いも関係がない。幼いころから父親が母親を閉じ込めているのを見てきて、自分も、経済関係上、父親と同じことをせざるをえなくなるから嫌うのである。
一方、好きにならないのは、美の基準から乖離していることも、相手の有する社会的関係、経済的関係、その上層にある思考についても相手の事を例え瞬時であっても、既に知っているから、好きにならないのである。
恋が冷めるのも脳のメカニズムやホルモンの働き等自然科学的要因でもなければ、心理的要因によるものではない。これらに基づく法則性も存在しない。
彼等はご主人様たるブルジョアとの関係上、既存の経済関係、社会関係等に原因だと認めてしまうと都合が悪いのだ。
恋が冷めるのは、相手の社会的関係、経済的関係、その上に建つ相手の実践→思考→実践について知ってしまったからである。
相手についての予想を変えていくのである。
パートナーの関係には、資本家と労働者の関係並びに社会関係に近づいていることを知りつつあって、思考に作用するのである。相手を知ることによって益々好きになったのは、相手について知っている部分が増えたが、依然知らない部分が多いから予想を変更していないだけである。
しかし、知らない部分は有限である。恋はいつかは終わるのである。