雇用機会均等、会計上の機会費用等、機会という言葉が用いられることがある。全ての経済取引は機会があるから行うのではない。機会というものは存在しない。経済行為にその結果には、予め備わっているのではないのである。努力をすれば成果を掴めるのかというとそれも違う。努力は階級によって阻まれているのだ。

既存の事実関係に問題が存在し、当該取引を行う必要があるからそれを行うのである。当該行為を必要は、偶然めぐってくるものではない。既存の事実関係が先に存在するから必要性を認識する。機会が均等でないと言われることがあるが、そうではない。富を独占している者がいるから、彼らが障壁を作り、差別を行い、経済取引が行いえないのである。金持ちは偶然現れるのではない。金持ちの家に生まれたのも偶然ではない。本人若しくは先祖が喧嘩が強かったから金持ちなのだ。金持ち喧嘩せずは嘘である。

以上の点を敷衍すると、先ず、収益を生み出す物が存在する。略奪によってそれを得る。それを得たことで例えばそれを失うことへの恐怖、自分以外の人間に対する嫉妬心という形でその者の思考に影響を及ぼし、略奪と生産を繰り返し、階級を作り、増殖を行う。人や物に属性並びに役割を与える。定義付けを行う。すなわち、概念及び法律を作る。経済的事実関係を無視したべき論によって属性を作っていりのである。資格並びにその試験という媒介を作り、法律を文章にして強化する。試験に合格した者が、ルールに沿って行動し、慣習的行動を作る。慣習的行動とは、結果に対する原因とはなりえないものである。

ここで注意しなければならないのは、概念が行動を支配するのではない。飽く迄、既に出来上がっているブルジョアと労働者(給与所得者に限定しない)の関係が行動を支配するのである。話は戻って、機会均等云々を論じる者が、言っていることは何か。目的を持って行動する実践の平等か、企ての平等か、乗越えの平等か、権利の平等か。全て違う。人は行為を行うに当たり、既に当該行為に関係する行為を行っている。したがって、空想(目的のこと)に基づいて実践し、力づくで乗り越えることを認めさせることでもなく、権利は闘争を勝ち抜いたブルジョアによって義務が課せられ、ブルジョアにお辞儀をして求めなければ手に入らない。

彼等が言っているのは、機会均等なのではない。全体の平等である。すなわち、全ての物事につき、問題提起を行い、問題として提起した物につき全ての事実関係を全ての者が知りうる立場(環境ではない。)を創造することである。それがなければ、つまり、障壁によって、階級が固定された事実関係においては、科学的に推論して自らの行動を決定することができないのである。

機会という言葉を用いることにより、「俺たちは悪くない。運が悪いのだ。チャンスがなかっただけだ。」と神学者たるブルジョアジーが防波堤を作ることに貢献してしまうのである。