接続詞の「ため」には、原因、理由、目的の意味が与えられている。原因と理由は、共に既存の事実関係に基づくものであるのに対し、目的(「効果を期待して支出する」も目的の一例である)は、既存の事実関係がないところから論じられる。目的は、いわば虚構(フィクション)なのである。空想、空想による思いつきなのである。

したがって、何等根拠なしで主張しているから相手方にその主張を認めさせることは難しいから直接又は何者かを媒介にして力づくで従わせることが行われる。現実に行ったところの行為については、既存の事実関係が何もないところには、情報や知識は存在しない。何も知らないところから、知識がゼロであるところからは思考を行うことができない。要求を行いえない。思考は自然発生的に偶然に生まれるものではないのである。法解釈は、目的と没交渉でなければならないと言われるのはこのことである。

目的論は、法解釈の分野では禁じ手であって、格闘技の試合でチンコを蹴り上げるようなものである。にもかかわらず、著名な学者先生や弁護士、裁判官の方々の書いた文章を見ても、彼らは目的を意味する「ため」を可成りの頻度で用いている。

目的は意思、恣意を有し、意思、恣意をも土台にしている。義務は、土台となる経済関係、事実関係があってせざるを得ない。目的だけ述べてみても、現実にそれを行わないことが可能なわけで、経済関係上当該行為を行うことをやめざるを得なかったと主張しても、当該行為を自らの意思で取りやめたと主張しても、現実にその行為を行ったという実績がなければ、当該主張を聞かされた側からみれば、それは虚構に過ぎないのである。

目的は実体がないから、それが事実であることを、それが現実であることを証明しえないのである。また、行為を行うにしろ、既に行ったにしろ、行為の目的を述べることは、当該行為に属性を与える行為であるから、事実関係について問題提起やその確認が行われているにもかかわらず、私は嘘をついていますと言っていることと同じである。 目的について方便であると言われているところに、重ねて目的をいってどうするのかと思う。