法人税基本通達は、「通常の」という言葉を使用する。
法人が有する固定資産の修理、改良のために支出した金額のうち当該固定資産の通常の管理のため、又はき損した固定資産につきその現状を回復するために要したと認められる部分の金額となるのであるが、次に掲げるような金額は修繕費に該当する(法基通7-8-2)。
機械の部分品を特に品質又は性能の高いものに取り換えた場合のその取替えに要した費用の内、通常の取替えの場合にその取替えに要すると認められる費用の額を超える部分の金額(法基通7-8-1(3))。
法人税法施行令は、下記のようにいう。
内国法人が、修理、改良その他いずれの名義をもってするかを問わず、その有する固定資産について支出する金額で次に掲げる金額に該当するもの(そのいずれにも該当する場合には、いずれか多い金額)は、その内国法人のその支出する日の属する事業年度の金額の計算上、損金の額に算入しない。
一 当該支出する金額のうち、その支出により、当該資産の取得の時において当該資産につき通常の管理又は修理をするものとした場合に予測される当該資産の使用可能期間を延長させる部分に対応する金額
二 当該支出する金額のうち、その支出により、当該資産の取得の時において当該資産につき通常の管理又は修理するものとした場合に予測されるその支出の時における当該資産の価値を増加させる部分に対応する金額(令132)
法人税の実務上、「通常の」管理又は修理について、如何に解釈すればよいだろうか。
学説は、通常の維持管理について、下記のようにいう。
ここで、通常といっているのは、普通のといった程度の意味なのでしょうが、具体的には、常に反復されるといった意味を持ち、そのような意味からまたその発生の時期や、これに要する費用の額をあらかじめ予測することが可能といった意味を含んでいるものと解されます。
次に通常の維持管理とは、土地とか骨董といった非減価償却資産は別として、時の経過によって、価値が減少していく減価償却資産にあっては、予想された機能を発揮させるためには、普通に考えられる維持管理が必要であることは異論のないところであります。
つまり減価償却資産であればこそ生じるしみ、よごれ、さび、きず、ほつれ、やぶれ、目減り等をそのまま放置しておくと、予定された機能を果たし得なくなるところから、これらの現象に対し、清掃、除去、塗装、補修、交換等の作業が必要となることになりますが、これらの費用は、減価償却資産を使用する以上欠くことのできない費用であって、いわば必要経費といえるものです。
減価償却費は、繰り返しますように、時の経過によってその価値が減少し、ついには、零に至る宿命を有するものですが、以上述べました通常の維持管理は、この価値の減少を示すライン、つまり償却のにはなんら影響を与えないことをその特性としていることも付け加えておかなければなりません。
言い換えれば、通常の維持管理費用とは、時の経過によって、それぞれの時点で予定された予定された機能を果たし得るような状態を用意するための費用であって、その機能を増大させるといった要素は全く持ち合わせていないということになります。(河手博、成松洋一共著・減価償却資産の取得費・修繕費192-193頁)。
上記ついて学説についてコメントさせていただくと下記のようになる。
修繕費の定義の内、「通常の維持管理」の「通常の」の意味であるが、ブルジョア階級が国家を媒介に社会に認めさせたという意味ではなく、償却ラインに影響を与えないという属性が備わっているという意味でもない。
商品には、価値が備わっていない。商品を労働力が稼動することによって、利潤に価値が付与され、その商品が摩耗して稼動できず、労働を疎外できなくなって、価値が低く付与される。摩耗は現象ではありません。
時間は、労働し続けた過程、労働を休憩した過程を架空の商品と交換してそれに価値を付与したものである。時の経過によって価値が減少するのではない。時の経過によって価値が零になる宿命など備えていない。減価償却費は、未払人件費の評価です。
当初、予定された機能というのは、実体のない観念です。物には、価値が備わっていません。品質や性能も備わっていません。実際に労働によって産み出した利潤の評価が修繕費か否かの基準になります。疎外労働をさせて賃金を搾れなくなるから修繕するのです。
それは、国際金融資本が労働者に資本の貸し出しをフィクションして、疎外労働を土台とした利潤を増殖することが「常に反復して繰り返される」ことが、経済上義務づけられるが故に、商品購入当初に支払った現金だけで、それを永久に購入当初と同様に使用して労働を疎外することができず、繰り返し修繕して原状回復してそれを労働者に貸し付けをフィクションして労働を疎外して利潤を増殖せざるを得ないという経済関係が、国際金融資本と労働者の間にあるということが土台にあるということである。