学者や自称人権派、自称左翼のブルジョア弁護士及びブルジョア税理士は、納税者権利憲章を画期的なものだとか、納税者の悲願達成だとか絶賛する。こうした、恰も、納税者に選択の自由や行政と対等な関係があるかのような思考は、既存の税務行政の問題点を隠ぺいし、とても科学的な判断を行う立場の者が行う仕事ではないであろう。

税務行政と納税者が対等であるとか、納税者に租税に係る権利があるかのような見解は、いかにも、ブルジョア学者の見解である。既成の経済関係、社会関係という土台、その上の権利義務関係の捉え方を誤ると、問題の建て方を誤るのである。

税務調査を行なうにあたっての納税者に対する事前通知を行なうこと、推計課税、推定課税を行なってはならないこと、白色申告者にも更正処分に際し、更正理由を附記することなどは、租税の徴収という行為は、納税者に対して、権力的生活手段略奪という侵害的行為であることや課税処分等を行なう際の課税を行おうとする取引に係る経済的関係を離れた恣意的課税の抑制の要請から、権力行為の主体たる課税行政庁自らが、法律の規定のあるなしにかかわらず、納税者が知りうるか否かにかかわらず、なさなければならないことである。

納税者の権利云々以前の問題である。恰も権利といった属性が納税者に備わっているかのような「当然論」、「べき論」、精神が人を造るかのような唯心論的な、道徳的な力づくの「当然論」、「べき論」的なこのような憲章など要らない。にもかかわらず、納税者に権利という高尚な人格を付与して、行政に対してお辞儀をして請求権として行使しない限りは、税務調査の事前通知や更正理由の附記をしてもらえない。権利を得る為に行政に対する「無条件な」従順さや協力を宣誓するという関係、こんな権利憲章など有難がるべきではないであろう。 また、納税者に権利がその属性として備わっているかのような主張は、納税者に外形上選択権を与え、課税等を受けたとしても、義務が付加されたとしても、納税者が自らの意思で権利の所有を選んだこととし、納税者の自己責任を強化することにもつながりうるのである。 ブルジョアは、まず、権利の前に義務ありきとするのである。