人は、生まれて間もないころは、セックスなんて嫌いである。
なぜなら、病原菌の素であり、強烈な刺激臭を発するいわば汚いものとして決められたウンコや小便にまみれたチンコやマンコなんて触りたくもなければ、舐めたくなんかない。バスとトイレが同じ部屋にある追い焚きの風呂に入りたいか否かを考えればよくわかるであろう。
しかも、資本に規定された女の場合、それが自分の肉体の中に入ってくるのだ。しかし、兵隊を作るという役割を国家や社会から与えられた、あるいは自分の人生を規定された女性は、子孫をつくることから食べられる必要がある。跡取りを作る役割が与えられるために、あるいは自分の人生を規定したいから男も女を食べる必要がある。あの手この手で女にもてようとする。
だから、男を引き付けるために、養われるため、銃後を守るために、衣服で身を包み、化粧をし、香りを振り掛けて、清潔な身体でなくてはならないと教えられる。男は、巧みに化けた女を見て、手淫のときと同じ快楽が得られるものと期待し、妄想と働かせて、興味を持つようになる。そして、行為を終えた後、面白くもおかしくも無いものであることに気付く。
男にとって、セックスは食欲と似たようなものととらえられるのだ。男も女も、自らを取り囲むリスクから、自ら決定権を握りたいと考えている者は、過去の歴史に照らし、推論を働かせ、判断力を研ぎ澄ませ、意図が記号となって現れる相手や男と女の媒介役のギラついた目つきや表情や動作からその人の意図とその土台である国際金融資本との資本関係を見抜こうとする。
そして、食べられるという恐怖や、食べたくないのに食べさせられるという判断を持つ様になる。自分の意思とは関係のない、いわゆる生理的に受け付けないということはないのである。嫌いだという判断は、自分の意思に基づくものなのである。だから、切羽詰まった女性経験に乏しい男が、事を急ぎ、お互いのことをろくに知らないうちに食事に誘って嫌われるのである。