戦争準備のための価値感の刷込みは、さまざまな形で人民を苦しめてきた。例えば、レイプされそうになったとき、セックスを拒めば殺されると脅迫されたとする。レイプしようとする相手から逃れればよいが、逃げられる状況ではない。助けを求めようにも自分と相手以外誰もいない。あとは、相手を殺すか、自らの死を選ぶか、セックスに応じるかしか選択枠が残されていない。
では、どうするか、やらせてしまえばよいのである。そんな奴のために自ら死を選ぶ必要はないし、正当防衛の余地があるとはいえ、人を殺すよりはるかにましである。はっきり言って、セックスには、食事や排泄程度の意味しかないのだ。自分を責める必要はないのだ。これ以上苦しむことはないのである。
にもかかわらず、財界をはじめとする国家の利益を守りたい者や、家の利益を守りたい者が、相続の際に誰が嫡出子かわからなくならないように、非嫡出子に財産が移転しないように、貞操を守ることが美しいだとか、処女が美しいだとか、これらの言葉に特別な意味を与えたのだ。人民を苦しめてきたもう一つ例を挙げると、いわゆる、父親に性交渉を強要され何度も妊娠させられた娘が父親を殺害するに至った尊属殺事件がある。これは、子供は親を敬い逆らってはいけないという教育勅語が刷込まれた結果でもある。もちろん、殺人は正当化できないが、こうした教育勅語の価値感は人民を苦しめてきたのである。