本日は、昭和天皇がラジオ放送で戦争の終結を宣言した「事実上」の終戦記念日とされる日である。法律上の終戦の日は、降伏文書に調印した昭和20年9月2日であるから、8月15日の終戦宣言は、法律上は何の効果もない。
「される」と書いたのは、事実上戦争が終わったとはいえないからである。財界をはじめとする国家が、アジア諸国から経済的利益を略奪することを目的に戦争を始めたおかげで、さらに人民を使ってそれを守らせたために平和が絶滅してしまった。終戦の時期を決定できたということは、相当の権限を有していたということであり、権限掌握に至るまでの経済戦争を勝ち抜いてきたということに鑑みれば、昭和天皇は、国際金融資本がフィクションさせた国家に含まれ、戦争責任を有している。
戦争は、イデオロギーの対立ではない。国家の威信や政治的または経済的指導者の面子をかけた争いではない。資産家資本家や経営者であるフィクサーは、戦争を企図演出する。しかし、経済的メリットを有しない外国や政治家のうち、技師にすぎない政治家、権限のない一軍人等による陰謀が原因ではない。お上品な言葉に騙されてはいけないのだ。
まず先に物質的利益が先である。権力はあくまで手段を構成するだけであって、目的ではないのだ。敷衍すると、財界をはじめとする国家は大部分の人民に、ブルジョアの生活様式に憧れさせ、人民も、それに賛同してそのミニチュアたる生産様式を所有した。
財界をはじめとする国家は、女性を閉じ込め、兵隊を作らせ、やがて子供を閉じ込め、人民の欲得と良心を更に刺激して、所有物とされたものを国家が徴収するという形をとり、所有物とされたものを守らせ戦争に参加させた。財界をはじめとする国家も巧みに人民が選択したかのような外形を整えようとした。
拷問等の有形力を行使したり、人民が選択したかのように装った財界をはじめとする国家をかばうつもりは毛頭ない。反対意見を唱える者を暴力により消したから平和が消えたのだ。
権力装置、抑圧装置による拷問による見せしめが行なわれ、反対説を唱え続けるのが困難な状況を財界等国家が作り出したことによって人民の思想が形成された面はある。
しかし、人民の側に欲得を得ようとする意思(反対説を採ることによる経済的不利益の回避という消極的欲得も含む)があって、且つ、ブルジョア的所有してしまったから、又はその所有に対する期待をしてしまったから、反対できなかったという側面も全く無かったとは言えないと思う。
したがって、戦犯者も戦死者も決して賛美の対象でも尊敬の対象者でもない。彼らは平和の破壊者である。しかし、ここでも財界をはじめとする国家は、「死ねば仏」と宗教を持ち出し戦犯や戦没者を批判することを人民に躊躇させる。さらに、財界の中には「商品や役務の対価」を装って人民に戦没者慰霊碑の資金を拠出させている者もいるのだ。
だが、ここで批判を止めることをしない。日本の経済基盤の弱体化という悪意があったとはいえ、GHQによる諸改革と日本における生き残った人々の復興へ向けた努力により、朝鮮戦争が始まるまでの数年間一時的に平和が訪れたかに見えたが、戦場に行かなくて済む戦争を指揮する側のブルジョア階級は、戦争を起こせば、自分たちは略奪により儲かるということを知っているから、何度でも戦争をしたがる。
彼らは利益獲得合戦に負けたのが悔しいのだ。だから、いつかリベンジを果たしたいと思っているかのように見える。戦争を引き起こした者と米国に追従することによる潤沢な内部留保に憧れ、戦犯や戦没者を賛美する者たちのおかげで、それに洗脳された者の賛同を逃げ口上にし、米軍基地の存在により、絶えず、武力攻撃による脅威にさらされ、アメリカの戦争に巻き込まれ、アメリカの国際金融資本の命令があれば、軍隊を派遣させられているのだ。石原慎太郎氏に言わせると、靖国神社に参拝しない者は、日本人ではないそうだが、世論の反対を恐れて参拝しない者が日本人でないなら、自分の意思で参拝しない者はもっと日本人でないことになる。私は日本人ではない。人間ではない。犬や猫その他動植物と同じ生き物である。