ある出来事が発生するには、必ずそれを稼働させる人間と稼働することを余儀なくされる者がまず存在する。土台は経済関係であるが、稼働させられるのは労働力である。
しかし、人は、時に、戦争という一つのポット(容器)の中に、財閥、天皇 内閣 軍隊 人民等あらゆる階層をを詰め込んで、統合することによって、その構成要素の一つ一つを覆い隠す。もう一つ例を挙げると、国家という一つのポットの中に、企業、経済機構、内閣、政党、官僚、人民を詰め込んで、統合をフィクションする。
戦争も国家も明らかにその行為の主体、その構成要素は、一握りの階層なのであるが、恣意的に様々な階層を取り込んで、一つの用語として統合されて、用語の中身を見えにくくしている。これらの用語並びに記号は、ある一定の経済的・社会的目標があれば、実際は帰属していなくとも人民に帰属意識を持たせて従わせることができるし、連帯責任と称して責任の所在を不明確にすることもできる。象徴としての記号も、指示命令機能を相変わらず有する。
戦後もいわゆる我らわが国を好んで主語にする「国民」の中には、祝日になると、会社や学校も朝礼になると国旗を掲げ、国旗を掲げ、天皇皇族が訪れたり、登場したりすると旗を振る。マスコミをはじめ人民の多くは、天皇一族に対し、通常用いないような古典文学に登場するような最高敬語を使ったりして、芸能人やスポーツ選手を呼び捨てにするのと同様に、呼び捨てにするとけしからんとして最高敬語を強要する。
国際金融資本にとって、人民はフィクションさせた国家の所有物であり、国際金融資本は、国家を用いて人民に対し、人民の幸福など願っていないのに感謝を強制し、自由を譲渡させ、嘘を強制し、従順なる奉仕を強制し、弱き者をくじくことを要求し、国家は生命をも要求しうるのだ。これが愛国心の姿である。人民も他人に自分がされたことを行なうことを嫌わなかった。これは現代でも同じである。
そして、国の利益に反することは真実ではないと耳を閉ざすのは今も同じである。社会という言葉は国家という言葉と統合又は変換可能なのである。国家は言語を自在に統合・変換操作を行い、戦時中多くの社会主義者が国家社会主義者に転向していった。そして、複数の言語の統合又は変換により戦争が人をおかしくさせたなどと主張したり、国家の意味を明らかにせず、国家の理不尽さ等を訴える。
そして、戦争を憎ませる人民の心を植えつける。どちらも特定の人間、すなわちその構成要素たる人間が、特定の人間に対して残虐な行いを命じたにもかかわらずにである。あたかも、姿・形のない物質が当該行為を行なったかのように見せるのだ。国家も戦争も人民には正体が見えない。どちらの言葉も、国家の内部の人間しかわからない「神聖言語」にしてしまっているのである。
昭和天皇が昭和50年代に記者クラブに対して行なった「戦争中のことだからやむをえない」との責任逃れの発言は、人間の行為を戦争という抽象物質のせいにする非常に批判すべき問題のある発言である。あまりにひどくて説明できないことは、暗号化したり、象徴化したりするのである。
あとは宗教や道徳を持ち出して加害行為を神の仕業とし、「罪を憎んで人を憎まずと」でもいっておけば、人民に人民自身が悪いのだと思い込ませれば、企図した者にとっては、目標を達成したも同然である。やがて、人民が奴隷であとを懇願するようになる。宗教に服していることは、宗教を信じていないと思い込んでいる人にも隠蔽される。「戦争」「国家」といった抽象名詞を挙げて批判する作品は多数存在するが、その言葉の定義及び具体的内容を明らかにせず、行為の主体を特定し、批判する作品がほとんど見られない、できないのは残念である。
戦争や国家の意味を明らかにした上で、これらを批判しなければ意味がないのだ。いまだに愛国心がない奴はけしからんと主張する論者がいるのをあわせて考えてみると、国際金融資本がフィクションした生産装置、国家装置、暴力装置による牽制力が働いている証拠でもある。