宗教とは何か。何も仏教、キリスト教、イスラム教、その他新興宗教など「教」がつくものばかりが宗教ではない。もっと身近なところに、現在生きている人間の言動の中にも宗教は存在する。
宗教とは、大企業をはじめとする利益集団たる国家が、自分たちに利益をもたらしてくれるように、被支配者に行動させ、被支配者に頑張らせる動機を与えるものである。宗教は人民を搾取する者の利益と結びついているのである。宗教は、右翼やブルジョアジーの所有物なのである。
自分たちの言うことをきかせ、あるときは、「地獄に落ちろ」「バチがあたる」などと恐怖心を与え、また、あるときは、「今、この世で頑張れば、今つらくても、あの世では幸せになれる」と言って慰める。
実際には、「あの世」も「地獄」もない。人は死ねば灰になるのだ。今この世で頑張れば、その恩恵を最もこうむるのはの金融資本だけである。
「成長の為に痛みに耐えろ」。これこそが宗教の姿である。宗教は、被支配者を統制するための手段であり、金儲けのための戦争を、「宗教戦争」だとか国の「威信」のための戦争であるといった言葉に変えて、その本質を隠蔽するのである。
岸信介作の経済スローガンと共に、経済目的の戦争につき、宗教やスポーツ、神話、時代劇、教育勅語、戦陣訓(島崎藤村作)、田中智学、宮沢賢治、石原莞爾らがいた国柱会の八紘一宇、結婚十則等を題材として、マスコミを媒介に、家族愛、自衛のため、民族の解放といった、被支配者の良心に期待するかのような大義を掲げ、また、架空の国家を使用して、虚勢を張って、勇ましい発言をし、それを強烈なリーダーシップとして憧れさせて、国威高揚、戦争準備を図るのである。生産のための集団としての「家族」「企業」「軍隊」の姿を隠蔽するのである。たとえ、暴力的な論理であっても、首尾一貫性を持たせることができれば、力は、歴史という名前が付けられて、人々はそれに隷従することが正しいことであり、最も幸せなことであるとの性格がそこに与えられ、無知な人間であれば、それを受け入れざるをえない。
多くの若者は、こうした仕組みを見破ることができなかったから、特攻機に乗り込んでいったのである。金融資本側は、このような論理を見破られたくないから、学問をやらせたがらない(例、ゆとり教育)。教育に力を注ぐ。マスコミには、読者、視聴者を賢くさせるような情報を流させない。
ブルジョア学者は、宗教的観念を弁護する。守り本尊に泣きつくブルジョアは、大概精神論をも好み、勝者を絶対として、勝者の論理に乗っかる、利己的ながつがつした人物である。自らの体制を永続化しようとする、いわば保守的なブルジョアジーは唯物論を憎悪する。だから、子供騙しのような論理に翻弄されている大人が現在でも多いのである。 いくら知識人であっても、信仰に基づき慣習に従う人も多いのである。