人は、生まれながらに持って生まれた運命があるのか。

答えは「無い」。

外形や機能の面からみて他の生物と自分たちを区別して、自分たちを「人間」と規定した。

人は、自らの所有財産を明確にすること、その他目的や欲求を持たせて、民族や家族といった集団を形成し、各集団毎に「民族名」や「姓」を付けた。

「民族名」「姓」つけることによって、それぞれの集団に役割や性格を与えたのである。

企業資本やその集まりである国家は、現在を通じて、過去と未来の関係を永続させる役割をその構成員に与えた。

さらに家族は、自分の子孫に名前を付けて役割を与え、性格を与えたのである。神によって役割や性格が与えられたのではない。

紙切れが人を使用し、「人」が「人」を使用して役割や性格を規定したのである。「身分(地位)」「職業」を規定し、各々に性格や役割や相互の力関係、上下関係を与え、社会が規定した上の者、強い者に逆らえないようにした。

階級の利害によって各人の意思を形成せざるを得ない。

よって、人は皆、自らの意思で自由に生きられない。人は大人になって、結婚し、子を持つことによって、家族や職場等による外部の圧力による制約はあるが、はじめて自分で経済関係の中から物事を決められることが実体化されたのである。

そして、経済関係によって欲しいものが生起された者やリベンジをしたいものがある者は、子供を作り、子供に名前を付けて、子供に自分の財産を守らせるその他といった、その役割と性格を与えることによって、つまり自らの野望を託して、やっと自分の人生が始まるのである。

つまり自分自身を規定することを余儀なくされるのだ。名前を付けるという行為は、自分の所有物として確保することなのだ。

そのことを知ることにより家族や子供を持ちたがる動機は生まれる。

だから自分の欲しいものを持っている相手(相手本人は持っていなくてもその家族が持っている場合を含む)と結婚する。

それは、金銭の場合もあるし、経済的余裕からくる癒しでもあるし、才能や容姿や従順な性格とそこからくる癒しであったりする。

優しさと強さを持った者は選ばれうるが、利益を獲得し守るため他者と喧嘩をする意思を示さない優しいだけの相手は滅多に選ばれない。

又は、自らが親や祖先から財産を守るという役割を与えられ(大抵は、大義やきれいな言葉で飾られて教えられる)、結婚し子孫を作る者もいる。

いずれにせよ、勝ち組になれば幸せになれる、国家をフィクションした資本すなわち財界の価値感に賛同しているから、その部下である自民党や民主党が好きだから、ブルジョア階級が好きだから、反対するとデメリトがあるから、結婚や生殖を行なうのである。

こんな世の中二度と生まれ変わりたくない、延命したくないという人は結婚も生殖もしない(こういう人たちは今も勝ち組利益団体たる国家、家族、職場等から弾圧されている)。

いずれにせよ結婚や生殖は決して持って生まれた本能や遺伝ではないのである。だから、自分のために生きてくれる、自分そのものだから自分の子供は可愛い、あるいは、財産を守るという責務を負わされたから、いずれにせよ自分のため、自分の家のためだから、自分の希望を人生を遂行してくれるから、言うことを聴いてくれるから、聞かせたいから、子供を持ちたがり、作り、これでもかと言えるほど子供に尽くすのである。

子供を作ることによって、親になることによって、稼いだ収入を投資して家庭という生産用具を持つ疑似経営者になれるのである。所有者になれるのである。

だから、人は支配したいと思う経済実体には、惜しみなく援助する。

従わせるために閉じ込める、子供の良心に期待する、恩を売る。優位に立とうとする。養われた方は力がないから逆らえない。だから、疑似経営者は、途中で思うように事が進まなかったり、否定されたり、自らの思ったとおりの行動をしないと腹が立って、憎さ100倍となる者もいるのである。

彼らにとって自分が否定されたのと一緒なのだ。こういうことで腹の立つ人たちは、財産その他自分の人生その他目的について執着の強い、欲深い、負けずぎらいになった人たちである。

財界である国家は、彼らの野心を利用して利益の拡大を目指す。そして、妻子に対する扶養する責任すなわち自己責任という親の良心に訴えて各親が頑張ってくれる。

責任を持たせることは、人を受動的人間にするのだ。人は能動的に思考しなくなる。その方が大企業をはじめとする利益集団たる国家の利益となる。

義務教育を迎えるとブルジョアの子供となるのだ。だから、「教育勅語」を作って子の良心に訴えて資本の部下である親や資本に逆らえないようにする。財界及びその支持者は、自分たちと同じライフスタイルを他人に求めるのだ。一見平和的牧歌的に見えても、他者と奪い合いをする気満々の肉食獣である。

こうした関係は、親子間、祖先ー子孫間にのみ見られるわけではない。職場とその得意先、上司と部下、先進国と発展途上国(これらの概念も人が区別するために恣意的に名づけて役割・性格を与えたものであって、客観的にみれば、例えば、発展途上国と呼ばれている国の人々の方がすぐれた才能・知識を身に着けてきていることもある。女性や子供に対する植え付けも含め、こうした無学無知であるという植え付けが、搾取や思想の抑圧や閉じ込めの方便となるのである。)の間にも見られることである。

他人の人生は他人のものであるままである。経済上の力関係により、自らの意思を方便にしてで、他人の人生を規定することはやめなければならないのである。