当ブログにおいて、私は、度々、ブルジョア国家の政策に関して、批判的なコメントを書かせてもらった。批判的なコメントばかり書いていると、「お前には、愛国心がないのか」、「国が滅んでもいいのか」との反論がありうる。
お答えしよう。愛国心はないのか?→はっきり言って、「ない」。国が滅んでもいいのか?→「構わない」。
何度も繰り返すが、国家とは、経済的な喧嘩を勝ち抜いた、いわゆる少数の「勝ち組」のみを指し、支配される側のその他人民は、国家に含まれていないのである。人民に対し、一定の守るものを持たせ、自分たちの価値観に憧れさせておいて、人民の命のことなどまるで考えていないことは、今回の原発問題を見ればわかると思う。
愛国心を求めるということは、支配される側に、支配する側を愛せ、もっとわかりやすく言うと、カツあげされた人に、カツあげした人を愛せと言っているようなものである。もし、愛している人がいたら、余程飼いならされているか、相当なマゾヒストである。
こう言う事を書くと、僻み根性だとか、負けて悔しくないのか(別に妬みもないし、悔しくない。だから、「うだつ」があがらないのかもしれない)、と煽って、転向させたがるのである。
そして、(私の理論は大したことはないが、)、過去に資本に反対意見を表明した人に対して、論理的に見て勝ち目がないと知るや、いわゆる「権力装置」を用いて、暴力で抑圧してきたことは歴史が物語っている。
また、若者の「教育」(刷り込み)には熱心だが、「学問」をやらせたがらない。かつての総理大臣安倍晋三の発言に「国家のために、国民は命を投げうたなければならないことがある」旨の発言があったが、投げ打つのは、国際金融資本の財産であって、人民の命ではない。
財産は搾取によって形成されたものである。搾取されたものを返せと言っているのである。財産をくれてやることにとよって、戦争突入が阻止できれば、それれでいいと思う(これが大人の外交だと思う)。
また、終戦の日になると、「今の平和な日本があるのは、多くの若者が国を守ったからだ」とする発言がある。これなどは、財閥資本が利益を維持拡大することに応じ、当時の若者をはじめとする国民(国家は、従属物ととらえていたという意味で、ここでは国民とする)に、見たたこともない他国の人間と殺し合いをさせたことを正当化するもので、支配する側にとっては、絶好のカモである。
多くの人が死を強制されて平和になるわけがないことは、幼稚園児でもわかることである(実際、平和になっているとは思えない)。大事なことは、それぞれの人間に対して、一人の人間として愛することだと思う。
同じ国家に属するからとか、家族だからとか、男だから、女だからとか、同じ職場の人間だからとか愛するのではないと思う。自分の属している集団の資本の利益をばかりに、他人は死んでもいいというのは悲しすぎる。
集団の資本の利益につき、その構成員に対し、同じ方向を向かせること(集団化)自体、戦争の動機となりうるのであるが、同じ方向を向かせるために使われたのが、国旗であり、宗教(はっきりいって地獄など存在しない)、家制度(守らせたいのは墓でなく、財産である)である。
個人的に、大切にすべきだと思うのは、故人の思い出だと思う。また、一つの方向を向かせるという意味で、記号としての天皇制を残存させたことは問題である。
多数説と異なるかもしれないが、他のイデオロギーよりも、資本主義の方がこうした集団化の方向に流れやすいと思う(例として戦時中の翼賛体制)。一人一人が互いに尊重し、問題点を一人で抱え込まずに支えあう世の中がくれば、国家は消滅してもいいと思っている。